ある日筆者はふと思った。あれ?そう言えばあの例の「でかい」という言葉はそもそも漢字で書けるんだっただろうか?それとも漢字では書けないんだっただろうか?と。
いかにも「その「でかい」という言葉はたとえばひらがなだけを使ってたとえば「でかい」と書かれることもあればまたたとえばひらがなとカタカナをどちらも共に互いに混ぜ合わせて使ってたとえば「デカい」と書かれることもある」・・・そのことは筆者も以前から何となくぼんやりとではあるもののいちおうは知っていたつもりだった。だがしかしその「でかい」という言葉はたとえばひらがなと漢字をどちらも共に互いに混ぜ合わせて使ってたとえば「巨い」⦅でかい⦆といっそ思い切って書いてしまうのははたしてどうだっただろうか?う~んだめだ。いまいちはっきりとは思い出せない。まあでもいずれにせよもし仮にそれで良ければたとえばかの「巨人」⦅キョジン⦆という言葉はそのままたとえば「巨い人」⦅でかいひと⦆としてすっきりと的確に解釈されうることだろうしまたたとえばかの「巨根」⦅キョコン⦆という言葉はそのままたとえば「巨い根」⦅でかいね⦆としてすっきりと的確に解釈されうることだろうしまたたとえばかの「巨乳」⦅キョニュウ⦆という言葉はそのままたとえば「巨い乳」⦅でかいちち⦆としてすっきりと的確に解釈されうることだろうではないか!
さて筆者はいよいよ気になって気になってもうどうにもこうにもしかたがなくなってきてしまってやれ〈日本〉語の辞書の類いやらやれ時としてたとえば『常用漢字表』⦅ジョウヨウカンジヒョウ⦆などと呼ばれることもあるような〈日本〉語の漢字の1覧表の類いやらについて色色と調べてみたりした。「はたしてその結果やいかに?」というと筆者のその手の届く範囲の内側にあったその世間の巷の界隈ではその「でかい」という言葉をたとえばひらがなと漢字をどちらも共に互いに混ぜ合わせて使ってたとえば「巨い」⦅でかい⦆と書くなどというような事例はついぞ1つも見つからなかった。おかしい!そんなのおかしすぎる!それは何というかあまりにも妙ではないか!
「おや?」・・・ところでそう言われてみると・・・筆者はまたしてもふと思った。その「おかしい」という言葉はそもそも漢字で書けるんだっただろうか?それとも漢字では書けないんだっただろうか?と。
さて筆者はまたしてもいよいよ気になって気になってもうどうにもこうにもしかたがなくなってきてしまってやれ〈日本〉語の辞書の類いやらやれ時としてたとえば『常用漢字表』⦅ジョウヨウカンジヒョウ⦆などと呼ばれることもあるような〈日本〉語の漢字の1覧表の類いやらについて色色と調べてみたりした。そしてまたそうするとその「おかしい」という言葉はたとえば漢字の「可」⦅カ⦆と漢字の「笑」⦅ショウ⦆とひらがなの「し」とひらがなの「い」をどれも全て互いに混ぜ合わせて使ってたとえば「可笑しい」⦅おかしい⦆と書かれることが実際問題としてままままあるということがすぐに立ち所にわかった。これはたとえばかの〈中国〉語の「可笑」⦅カショウ⦆という言葉をかの〈日本〉語の「笑う可き」⦅わらうべき⦆という言葉に無理やり当てはめて読むというようなその〈中国〉語の言葉に対するその〈日本〉語の言葉によるある種の読み下しの習慣にこそぞ1部由来するものだ。しかしまたそうはいってもその「おかしい」という言葉はひとえにたとえばその漢字の「可」⦅カ⦆とその漢字の「笑」⦅ショウ⦆というそれらの2つもの漢字をわざわざ互いに組み合わせて使ってたとえば「可笑しい」⦅おかしい⦆とぎこちなくまどろっこしく書かれるよりかはむしろたとえばその漢字の「妙」⦅ミョウ⦆というそのたった1つだけの漢字を素直に単独で使ってたとえば「妙しい」⦅おかしい⦆とすっきりさっぱりと書かれたほうがたとえば「雰囲気が妙しい」⦅フンイキがおかしい⦆≓「雰囲気が妙だ」⦅フンイキがミョウだ⦆などのようにその〈日本〉語の言葉とその〈中国〉語の言葉のその互いの1対1の対応も何やら思いの他うまく行くようだしあるいはひょっとすると色色な面で大いに優れているのではないか?いやそれどころかそもそもある種の昔ながらの固定観念には囚われずにもっと自由闊達で大胆不敵な構想を巡らせることが許されるならばそのような〈日本〉語の漢字を使った正書法のあれこれにはまだまだ大いに改善の余地があるのではないか?筆者の頭の中には今やもはやそんな素朴な疑問やら夢想やらがつぎつぎと湧いてきては止まらなくなった。
さて〈日本〉語の文章はたとえば「ひらがな」、「カタカナ」、「漢字」というように基本的には3つの種類の文字系をどれも全て互いに混ぜ合わせて使って書かれるものだがまたそれゆえにそのような〈日本〉語の文章はたとえばその他のもろもろの言語たちの文章たちと互いに比べてみても得てしてその分だけやたらと複雑奇怪な様相を呈してしまいがちなものだ。しかしまたそうであるにも関わらずそのような〈日本〉語の文章には今の所はちゃんとした・・・つまりは何らかの合理的な根拠に基づいた・・・1人前の正書法とでも呼べるようなものはおよそありやしないしそしてまたその結果としてそんな何ともお粗末な状況下にあって日々次から次へと産み出されてくるそのような〈日本〉語の文章からはその全体をその隅々までがつんと問答無用で強力に貫き通すかのようなそんな偉大で厳格な規律はもはや完全に失われてしまっているに等しいものだと言えるものだ。しかしまただからといってそれをそのままいっさい何の手も打たずにただただ無作為に惰性で放置してしまっているとそのような〈日本〉語の文章はこの先もずっとその今のぐちゃぐちゃの魑魅魍魎とした混沌の闇の中からは永遠に抜け出せなくなってしまうことだろう。
さて今や〈日本〉語の正書法をきちんと確立することは全ての良識ある〈日本〉人たちの急務である。なぜならそのような〈日本〉語の正書法についてのある種の事実上の標準的な理論としてある種の事実上の強制力を伴って使われることも多いその今のいわゆる『常用漢字表』⦅ジョウヨウカンジヒョウ⦆ごときめのものはそのそこら中のあちこちを色色とおかしな欠陥に次ぐ欠陥によってうじゃうじゃと埋め尽くされてしまったある種の非文明性の劣化退廃物に他ならないものであり今やもはや全く使いものにならないものだからだ。またその他にもそのような〈日本〉語の正書法としてはたとえば「ローマ字専用方式」や「かな文字専用方式」などのようにそもそもその他のもろもろの方式のものも理論上は考えれるはずのものだが本書では「その他のもろもろの方式の〈日本〉語の正書法がなぜ淘汰されてきてその今のその〈和〉単語の単語に対する漢字の訓使いを使う方式の〈日本〉語の正書法こそぞがなぜ生き残ってきたのか?」という点にもざっと触れつつもたとえばその本書の題名の主部の『〈日本〉語の漢字を使った正書法の改善案について』にもあるように主としてその今のその〈和〉単語の単語に対する漢字の訓使いを使う方式の〈日本〉語の正書法についてこそぞいざ取り上げていくことにしよう。また筆者はそのような〈日本〉語の正書法についての色色な分析や考察などを1つ1つ地道に積み重ねていく中で必然的にまた別の〈日本〉語の単語の成り立ちの問題についてもそれはそれはもう深くにまで立ち入って行かざるをえなくなってしまったが本書ではそのような〈日本〉語の単語の成り立ちの問題についての筆者の研究上のけっして少なくない成果についてもたとえばその本書の題名の副部の『~〈日本〉語の単語の成り立ちの分析を添えて~』にもあるようにいざたっぷりと思う存分取り上げていくつもりだ。
さてその上であえて1つ言っておかなければならないことがあるとすればそれはずばりこの世間の巷の界隈にピンからキリまでまるで湯水のようにうじゃうじゃとあふれ返っているそのような〈日本〉語の単語の成り立ちの問題にまつわる言説はかの日本でも有数の著名な出版社たちから発売されている市販の〈日本〉語の辞書たちに乗っているものも含めて大いに間違っていることがいかにもたくさんあるということだ。筆者としてはそんな市販の〈日本〉語の辞書たちのありとあらゆる箇所にあれよあれよとあられもないほど大量の修正が筆者のせいで入らざるをえなくなってしまうのは元よりその関係各所の皆様に対して誠に申し訳なくまた大変心苦しくもあるのでその点に関してのみ言えばできれば避けたいことだがしかしまた事実はそれでも事実としてあるがままに冷静に指摘されなければならないことだろう。
また本書の余波はその〈日本〉語のその内部周辺の比較考証言語学の分野にも及ぶだろう。本書のその詳しくは本文に譲るが特にその〈日本〉語の単語の子音の音素の複雑な交替の実態やその〈日本〉語の単語の系統の解析に当たってのとある充分条件と必要条件の互いの区別の重要性などについての1連の優れた分析や考察などを目の当たりにすればそのまた別の関係各所の皆様もまた良かれ悪かれ自分たちがこれまで必死の思いで成し遂げてきたやれ何やかんやとあれこれと数多くの地道な作業たちをまた1から全てやり直さなければならなくなるほどのある種の甚大で破局的な影響をこうむらずにはいれないはずだ。