さてところでかの〈日本〉語にはたとえば「おびやかす」などというような言葉がありますがその〈日本〉語の単語の「おびやかす」とはすなわち「おびえさせる」ことなのでしょうか?
さてそのような(?)「おびやかす」≒「おびえさせる」説はたとえば「あまえる」と「あまやかす」≒「あまえさせる」や「たぶれる」と「たぶらかす」≒「たぶれさせる」や「そびえる」と「そびやかす」≒「そびえさせる」などのようなまた別の〈日本〉語の単語たちの形にもうまく習っていて1見すると極めて正しいようにも思えるものです。
しかしまたそのような(?)「おびやかす」≒「おびえさせる」説は実際にはその意味がどうにもこうにも支離滅裂になってしまうものでありけっして成り立つものではありません。
たとえば「言論の自由がおびやかされる」時にはそこではたとえば「言論の自由がおびえる」ことになるものなのでしょうか?
否。
「言論の自由」とはすなわち無生物であってけっして「おびえる」ものではありません。
さてではたとえば「言論の自由がおびやかされる」時にはそこではそのような「言論の自由」はいったいどのようになるものなのか?というとそこではそのような「言論の自由」は基本的にはひとえにたとえば「(*)危やかされる」⦅あぶやかされる⦆≒「危なくさされる」⦅あぶなくさされる⦆ことになるものです。
それでこそぞそこではその言葉の意味がぴったりとうまく通ることになるものです。
いかにも「おびやかす」とはすなわち「(*)危やかす」⦅あぶやかす⦆≒「危なくさせる」⦅あぶなくさせる⦆ことでありその〈日本〉語の単語の「おびやかす」はいっそその〈漢〉文字の〘危〙⦅クヰ⦆⇔⦅キ⦆を使ってたとえば「危やかす」⦅おびやかす⦆などのように書かれてしまっても良いものであるように基本的にはかの〈日本〉語の単語の「危ない」⦅あぶない⦆とこそぞ極めて深い関係のあるものであって基本的にはかの〈日本〉語の単語の「おびえる」などとはおよそ何の関係もないものです。