さてところで人は何かをしていて何かこう良い感触などがあったりする時にはたとえば「手ごたえがある」⦅てごたえがある⦆などと言ったりしまた何かをしていて何もまるで良い感触などがなかったりする時にはたとえば「手ごたえがない」⦅てごたえがない⦆などと言ったりしますがその「手ごたえ」⦅てごたえ⦆とはいったい何でしょうか?
その「手ごたえ」⦅てごたえ⦆とはすなわち「(?)手答え」⦅てごたえ⦆でありすなわち「手からの応答」⦅てからのオウトウ⦆でしょうか?
なるほど確かに「何かをしていて順調に良いことが起きている時には手がそれを脳へと知らせるための応答としてフィード・バックを返してくれるのでありまただからこそぞそれは「手答え」⦅てごたえ⦆と呼ばれるんだ!」というのはそれなりに筋が通っているようにも思えるものです。
ですがちょっと待ってください!
筆者はその周囲の関連する事情を詳しく分析してみた結果、そのような「手ごたえ」⦅てごたえ⦆≒「(?)手答え」⦅てごたえ⦆説はどうやら成り立たないようだ!ということにある時ばっちりと気が付きました!
さてまず考えたいのはたとえば「寒さが身にこたえる」⦅さむさがみにこたえる⦆という表現についてです。
その「寒さが身にこたえる」⦅さむさがみにこたえる⦆という表現は基本的にはたとえば「(?)寒さが身に答える」⦅さむさがみにこたえる⦆という表現としては解釈できません。
なぜならそこではその「身」⦅み⦆はその「寒さ」⦅さむさ⦆にご丁寧にも答えてもらうような立ち場にはないものだからです。
そこではその「身」⦅み⦆はむしろその「寒さ」⦅さむさ⦆にいやおうなしに影響されてしまうような立ち場にあるものです。
さてではその「寒さが身にこたえる」⦅さむさがみにこたえる⦆という表現ではその「こたえる」はいったい何を意味しているのでしょうか?
ずばりその「寒さが身にこたえる」⦅さむさがみにこたえる⦆という表現ではその「こたえる」はかの「がつんと」や「くらう」や「くらわす」や「かます」などとも互いに同じである種の打撃や衝撃などを意味しているものです。
またそれゆえにその「寒さが身にこたえる」⦅さむさがみにこたえる⦆という表現はたとえば「寒さが身にがつんと来る」⦅さむさがみにがつんとくる⦆などのようにして解釈されるとこれがまさしく極めてぴったりとうまく解釈されるものです。
そしてまた先程の「手ごたえ」⦅てごたえ⦆も引いてはまた別の「歯ごたえ」⦅はごたえ⦆も基本的にはそれとも互いに全く同じことです。
「手ごたえ」⦅てごたえ⦆とはすなわちたとえば「手にがつんと打撃や衝撃などが来ること」⦅てにがつんとダゲキやショウゲキなどがくること⦆です。
「歯ごたえ」⦅はごたえ⦆とはすなわちたとえば「歯にがつんと打撃や衝撃などが来ること」⦅はにがつんとダゲキやショウゲキなどがくること⦆です。
手や歯などがうっふん良い感じの適度な打撃や衝撃などを受けるとそこでは「手ごたえがある」⦅てごたえがある⦆や「歯ごたえがある」⦅はごたえがある⦆などのような状況が産まれてくれます。
また逆に手や歯などがまるでのれんに腕押しのように何の打撃や衝撃なども受けないとそこでは「手ごたえがない」⦅てごたえがない⦆や「歯ごたえがない」⦅はごたえがない⦆などのような状況が産まれてしまいます。
因みにそれらの「がつんと」や「こたえる」や「くらう」や「くらわす」や「かます」などはその気になればかの〈漢〉文字の〘撃〙を使ってたとえば「撃つんと」⦅がつんと⦆や「撃たえる」⦅こたえる⦆や「撃らう」⦅くらう⦆や「撃らわす」⦅くらわす⦆や「撃ます」⦅かます⦆などのように書かれても良いものです。
またそれゆえにそこではそれはひとえに「手撃たえ」⦅てごたえ⦆や「歯撃たえ」⦅はごたえ⦆や「寒さが身に撃たえる」⦅さむさがみにこたえる⦆などでありよもや決して「(?)手答え」⦅てごたえ⦆や「(?)歯答え」⦅はごたえ⦆や「(?)寒さが身に答える」⦅さむさがみにこたえる⦆などではありません。