さてところでかの〈日本〉語にはたとえば「における」や「において」などの言葉がありますがそれらの〈日本〉語の「における」や「において」などの言葉はその語源の解釈がなかなか難しいものです。
それらの「における」や「において」などは基本的にはたとえば「での」や「で」などのような意味を持っているものだと考えれるものであり基本的にはかの〈欧米〉語では時としてたとえば「処格」⦅ショカク⦆や「場所格」⦅ばショカク⦆などと呼ばれたりすることなどもあるようなある種の文法上の機能を表わしているものだと考えれるものです。
たとえば「学校での規則」⦅ガッコウでのキソク⦆≒「学校における規則」⦅ガッコウにおけるキソク⦆などのようにしてです。
ただしかの〈日本〉語にはそれ独自の文法の体系があるものなのでかの〈日本〉語の文法の体系をそのようにしてかの〈欧米〉語の文法の体系に無理やり当てはめて解釈するのは必ずしも得策ではありません。
それはさておきではそれらの「における」や「において」などのその単語の起源とはいったい何でしょうか?
さてそれらの「における」や「において」などは時としてたとえば「に於ける」⦅における⦆や「に於いて」⦅において⦆などのようにして書かれたりすることなどもあるものです。
その「於」⦅オ⦆はしばしば表発音的に使われることもあったものでありかのひらがなの「お」の起源になったものだとも言われるものです。
もし仮にその「於」⦅オ⦆がただの表発音文字であったならばそれらの「における」や「において」などのその単語の起源についてはそれによっては何も解決されません。
しかしまたその「於」⦅オ⦆はかの古典〈中国〉語ではある種の前置単語としてたとえば「我属於○○」⦅ガ・ゾク・オ・○○⦆≒「私は○○に属する」⦅わたしは○○にゾクする⦆などのようにしてかの「に」のようにして使われることもあったものです。
そしてまたそうするともし仮にそれを認めるならばそれらの「に於ける」⦅における⦆や「に於いて」⦅において⦆などはひとえにそれを〈漢〉単語としてたとえば「に於せる」⦅にオせる⦆や「に於して」⦅にオして⦆などが訛ったものだとも考えれるものです。
また逆にそれらの「における」や「において」などはひとえにそれを〈和〉単語としてその単語の起源をかの〈日本〉語そのものの中へと求めることもできます。
その立ち場を取る場合いそれらの「における」や「において」などはたとえば「に置ける」⦅における⦆や「に置いて」⦅において⦆からのその意味の転用でもってある種の場所や位置などを表わすようになったものだなどとも言われるものです。
しかしまた筆者としてはそれらの「に於せる」⦅にオせる⦆や「に於して」⦅にオして⦆でも「に置ける」⦅における⦆や「に置いて」⦅において⦆でもないまた別の第3の説を強く推したく思います。
それはすなわち「それらの「における」や「において」などはひとえにかの「に居れる」⦅におれる⦆や「に居りて」⦅におりて⦆などが訛ったものだ」というものです。
そのような「における」、「において」≒「に居ける」⦅における⦆、「に居いて」⦅において⦆説の良い所はかの〈日本〉語にはたとえば「に有って」⦅にあって⦆というようなある種の互いに類似の語源を持った用法があるということです。
たとえば「迫力の面では物足りない映画」⦅ハクリョクのメンではものたりないエイガ⦆≒「迫力の面に居いては物足りない映画」⦅ハクリョクのメンにおいてはものたりないエイガ⦆≒「迫力の面に有っては物足りない映画」⦅ハクリョクのメンにあってはものたりないエイガ⦆などのようにしてです。
またそれに加えてたとえば「かの現代〈中国〉語ではかの「在」⦅ザイ⦆がある種の前置単語としてたとえば「我待在○○」⦅ガ・タイ・ザイ・○○⦆≒「私は○○で待つ」⦅わたしは○○でまつ⦆などのようにしてかの「で」のようにして使われることがある」というのもその「居る」⦅おる⦆とその「在」⦅ザイ⦆のその互いの意味の近さを考えると見逃せない点です。
本日のまとめ
それらの「における」や「において」などのその単語の起源としては
1、「に於せる」⦅にオせる⦆、「に於して」⦅にオして⦆
2、「に置ける」⦅における⦆、「に置いて」⦅において⦆
3、「に居れる」⦅におれる⦆、「に居りて」⦅におりて⦆
などが考えれるが筆者はその中でも特にその内のその3番の「に居れる」⦅におれる⦆、「に居りて」⦅におりて⦆が1推し!
というものでした。