さてところでかの現代〈中国〉語を勉強しているとしばしば折りに触れて「知道」⦅チュー・ダウ⦆という単語に出くわします。その現代〈中国〉語の単語の「知道」⦅チュー・ダウ⦆はそれ自体でただ単に「知る」⦅しる⦆という意味を表わすものでありまたそれゆえに特にその字面から推測されるような「道を知る」⦅みちをしる⦆という意味を表わすものではありませんがこれはいったいどういうことでしょうか?
さてそもそもの背景として知っておきたいのはかの〈中国〉語では西洋暦の紀元前の大昔の古典〈中国〉語の時代には今の最近の現代〈中国〉語の時代と比べるとたとえば「知」⦅チュー⦆や「清」⦅チン⦆などのように1文字で書かれる1音節の単語をよく使ったがそれだと互いによく似た発音を持った単語たちが段段と増えてきてそれらの互いによく似た発音を持った単語たちどうしのその互いの区別が段段と難しくなってきたからか?時代が下るにつれてたとえば「知道」⦅チュー・ダウ⦆や「清浄」⦅チン・チュン⦆などのように2文字で書かれる2音節の単語をよく使うようになってきたなどと言われているということです。
またそれゆえにその現代〈中国〉語の2文字で書かれる2音節の単語の「知道」⦅チュー・ダウ⦆も言うならばその古典〈中国〉語の1文字で書かれる1音節の単語の「知」⦅チュー⦆のその進化版のようにして別に特に「道を知る」⦅みちをしる⦆という意味を表わすものなどではなくむしろただ単に「知る」⦅しる⦆という意味を表わすだけのものなのですがしかしまたそれにしてもそこではいったいなぜ「道」⦅ダウ⦆が使われなければならないのでしょうか?
さて結論から言うとそこではその現代〈中国〉語の単語の「知道」⦅チュー・ダウ⦆はかの古典〈中国〉語の単語の「知暁」⦅チュー・ギャウ⦆がいつの間にか訛ってしまったものだと考えれるものです。
その古典〈中国〉語の単語の「知暁」⦅チュー・ギャウ⦆はある時その発音が「チュー・ギャウ」から「チュー・ダウ」へといつの間にか変化してしまったのですがそれに倣ってそこではまた別の新たな単語の「知道」⦅チュー・ダウ⦆が産み出されそしてその後にはそれがいつの間にか定着してしまうことになりました。
そしてまたそのような「知暁」⦅チュー・ギャウ⦆ならばたとえば「知って暁きらかになる」⦅しってあきらかになる⦆ということでその意味的には何らの違和感もないものです。