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〈日本〉語の正書法について

  • 記事作成日:2024年1月20日
  • 記事最終更新日:2025年3月31日

この記事の目次

正書法=文字言語の表記の規則

さて以前の章では主に言語1般の音声や文字などにまつわる色色な話題についてひと通り概観してきたがこの章ではいよいよ〈日本〉語の音声言語はいったいどのようにして〈日本〉語の文字言語として表記されるべきなのか?というその本書の題名の主部にもあるような〈日本〉語の漢字を使った正書法にまつわる色色な話題についてひと通り概観していくことにしよう。

単語の分かち書き

さて音声言語はある意味ではひと続きのものとしてある種の線形的な連続体として成立しているものだがそのような音声言語を何らかの文字を使って表記するに当たってはその音声言語をただ単にだらだらと1本調子のくねくね紐のように表記してしまうといったいどこからどこまでが1つの単語でありいったいどこからどこまでがまた別のもう1つの単語なのか?ということがとてもわかりにくくなってしまってとても不便になってしまう。そこで世界の色色な種類の言語の正書法では1つ1つの単語の間にたとえば空白文字⦅スペース文字⦆やその他のもろもろの記号などを入れるなどすることでそれらの単語どうしの互いの境目をひと目ぱっと見ただけでもわかりやすく表示するというようなそんな単語性の明確な表示の規則が取り入れられていることが多いがこれは1般にはずばり単語の分かち書き⦅Word Division、ワード・ディヴィジョン⦆と呼ばれるものだ。

たとえばドイツ語はたとえば「Ich bin glücklich」⦅イヒ・ビン・グリュックリヒ、私は嬉しい⦆というように基本的には単語の単位で分かち書きされるものだ。

また逆にたとえば〈中国〉語はたとえば「我很高興」⦅ウゥオ・フン・カウシン、私は嬉しい⦆というように基本的には単語の単位でもその他の単位でも分かち書きされないものだ。

文節の分かち書き

またその特定の言語の正書法によってはそのような単語の単位での分かち書きまでは行なわないまでも単語よりももう少し大きめの単位である1般にはずばり文節と呼ばれるものの単位での分かち書きは行なうというものもある。文節はもちろん色色な定義によって必然的に色色と互いに異なってくるものだがたとえば〈日本〉語、韓国語、朝鮮国語などではたとえば「名詞⦅メイシ⦆という種類の単語+助詞⦅ジョシ⦆という種類の単語」という固まりや「形容詞⦅ケイヨウシ⦆や動詞⦅ドウシ⦆などという種類の単語そのもの」という固まりなどとして定義されることが多いものだ。

たとえば韓国語はたとえば「나는 기쁘다」⦅ナ・ヌン・キップダ、私は嬉しい⦆というように基本的には文節の単位で分かち書きされるものだ。

(そこではそれらの「나」⦅ナ、私⦆+「는」⦅ヌン、は⦆+「기쁘다」⦅キップダ、嬉しい⦆という3つの単語がそれらの「나는」⦅ナ・ヌン、私は⦆+「기쁘다」⦅キップダ、嬉しい⦆という2つの文節として分かち書きされている。)

スペース・キー分割論

人がたとえばパソコンなどを使って文字を入力する時に使う装置の内の1つとしてはキーボードが挙げれる。キーボードは基本的にはいくつものキーと呼ばれるボタンのようなものが付いた装置だが人はそのようなキーボードを使うことでたとえば何らかの特定のキーを押すことでその特定のキーに対して前もって割り当てられている文字を適宜入力したりするというようなことがいざちょちょいのちょいと簡単にできるようになる。

たとえば〈英〉語やその他のもろもろの欧米語の正書法では基本的には空白文字を使って単語の分かち書きを行なうことが多くまたそれゆえにそれらの全てのキーの中でも特にその空白文字を入力するために使われるスペース・キーの使用頻度は極めてばか高いものになっている。またそれゆえにそのような〈英〉語圏を始めとした欧米語の文化圏で使われるキーボードではそれらの全てのキーの中でも特にそのスペース・キーこそを極めてばかでかく極めてばか横長く作っておくのにはそれなりに合理性がある。

しかしまた翻ってたとえば〈日本〉語や〈中国〉語などの漢字を使う言語の正書法では基本的には空白文字を使って単語の分かち書きを行なうことはあまりなくまたそれゆえにそれらの全てのキーの中でも特にその空白文字を入力するために使われるスペース・キーの使用頻度はそれほど高くはないものになっている。しかしまたその代わりにそのようなたとえば〈日本〉語や〈中国〉語などの漢字を使う言語の文章をいざキーボードを使って書こうとするとその時には漢字の入力という極めて複雑な作業が必要になってくるしそのような漢字の入力という極めて複雑な作業では通常はまず1旦はかな文字やローマ字などを使って基本の文字を入力した上でさらにその後にようやくその基本の文字をその意中のお目当ての漢字へと変換するというような2段階の過程を踏むのがその事実上の標準的な工程になっている。そしてまたそうするとそのようなたとえば日本や中国などの漢字文化圏で使われるキーボードではたとえば右手の親指と左手の親指で互いに異なる操作ができるようにするためにもその両手の親指の近くにあるスペース・キーは2つにでも3つにでも4つにでも適切に分割されておいたほうがきっと良いはずだ!ということになる。

親指シフト式のキーボード入力

そしてまたそのようにして〈日本〉語の文章をいざキーボードを使って書く時に右手の親指と左手の親指で互いに異なる操作ができるようにしておくとその時には人はいわゆる親指シフト式のキーボード入力などと呼ばれるような〈日本〉語のかな文字単位での親指シフト式のキーボード入力にも極めて容易に対応できるようになってくる。

〈日本〉語のキーボード入力の方法はまず大きく分けるとローマ字単位でのキーボード入力とかな文字単位でのキーボード入力へと分けれる。たとえばその内の〈日本〉語のローマ字単位でのキーボード入力ではたとえば右手で5個×3段=約15個のキーを操作でき左手で5個×3段=約15個のキーを操作でき両手で合わせて約15個+約15個=約30個のキーを操作できるがこれはローマ字の約26個の文字の入力を全てきれいにまかないきれるものだ。しかしまたその1方でその内の〈日本〉語のかな文字単位でのキーボード入力ではそれよりも遥かに多いかな文字の約50個の文字の入力を全てきれいにまかないきれなければならないがそれほどまでの少なくとも50個以上というたくさんのキーを両手でかたかたと見事に操作するという超絶技巧的な芸当は基本的にはキーボードの親指シフト・ボタンを長押しすることで有効化されるキーボードの親指シフト面を利用してこそ現実的には可能になることだ。たとえばその内の〈日本〉語のかな字単位での親指シフト式のキーボード入力ではたとえば右手の通常面で5個×3段=約15個のキーを操作でき右手の親指シフト面で5個×3段=約15個のキーを操作でき左手の通常面で5個×3段=約15個のキーを操作でき左手の親指シフト面で5個×3段=約15個のキーを操作でき両手でそれらの通常面と親指シフト面をどちらも共に合わせて約15個+約15個+約15個+約15個=約60個のキーを操作できるがこれはかな文字の約50個の文字の入力を全てきれいにまかないきれるものだ。

(そのような〈日本〉語のかな文字単位での親指シフト式のキーボード入力は『富士通』⦅フジツウ⦆という会社がかつて発明したものだがハードウェアとソフトウェアの分離の不十分さ、親指シフト式の規格の本質ではない「親指とその他の指の同時打鍵の有用性」についての誤った広告宣伝戦略、親指シフト式の規格を『日本産業規格』⦅JIS、Japanese Industrial Standards⦆で正式な規格として採用させることに失敗した政治力の足りなさなどが色色と重なってこの今現在の日本の憂わしい状況の元ではいまいち日の目を見ずに廃れてきてしまっているものだ。しかしまたそのような〈日本〉語のかな文字単位での親指シフト式のキーボード入力は本質的には1つの非常に優れた手法でありまたそれゆえにもし仮に何らかの形での〈日本〉語のキーボード入力の需要が今後もずっと続くとするならばそれはもっと積極的に社会的に復活さされるべきものだ。)

〈和〉単語の表記

さて〈和〉単語はいったいどう表記されるべきだろうか?1つには日本原産の単語である〈和〉単語は日本原産の文字である和文字すなわちかな文字を使ってこそ表記されるべきだ!というような考え方があるしこれは1見するととても理にかなった考え方であるかのようにも思える。しかしまたその1方で実際にはそれらの〈和〉単語は日本原産の単語であるにも関わらず中国原産の文字である漢字を使って書かれるすなわち漢字の訓使いを使って書かれるということが日本に漢字が伝来したまさにその瞬間からこれまでずっと1貫してとても広く行なわれてきたがこれはひとえに言うならばそのような漢字の訓使いのある種の根強い習慣にはそのいくつかの紛れもない欠点や弱点などと共にそれなりのけっして見逃せないほどの大きさの利点や有用性などがまず間違いなくあったのだ!ということを大いに意味しているものだ。

漢字の訓使いの良い点その1:単語どうしの互いの境目を表せる

〈日本〉語の文章ではたとえば「1部の文法上の機能語の〈和〉単語はかな文字を使って書くがその他のもろもろの1般的な〈和〉単語は漢字の訓使いを使って書く」というようにするとかな文字と漢字が互いに適度に入れ替わり立ち替わりながら現れてくることになるがそのようにしてかな文字と漢字を互いに適度に混ぜ合わせながら書かれた〈日本〉語の文章ではその読み手の側の人はわざわざ単語の分かち書きに頼るまでもなくただ単にそのかな文字と漢字の互いの境目の所をひと目ぱっと見ただけでその1つ1つの単語の互いの境目の実体までをもすぐに簡単に認識できるようになるしこれは実際問題としてそのような漢字の訓使いがもたらしてくれるいくつかの良いことの内のまず間違いなく1つだ。

たとえば〈日本〉語の単語の分かち書きなしの文章の「肌が白い」⦅はだがしろい⦆はそのかな文字と漢字の互いの境目の所をひと目ぱっと見ただけでたとえば「肌」⦅はだ⦆+「が」+「白い」⦅しろい⦆というように「ああなるほど3つの単語へと分けられるべきものなのだな!」ということがすぐにわかるものだ。

漢字の訓使いの良い点その2:同発音異系統語を互いに区別して表せる

また漢字は基本的には〈日本〉語の単語であれ〈中国〉語の単語であれその単語の発音と意味をどちらも共に表せるものであり基本的には表語文字として使われることが多いものだがそのような漢字の表語文字としての天賦の才能はそのような漢字の訓使いの魑魅魍魎とした世界の中でもその真価を遺憾なく発揮してくれるものだ。たとえば漢字の訓使いではその漢字のその他のもろもろの表音文字にはけっして真似できないような表語性の高さのおかげでいわゆる同音異義語すなわち同発音異系統語すなわちその発音は互いに同じだがその系統は互いに異なる単語を互いに明確に区別して表せることがあるがこれはなかなか便利でタマランチ会長なことだ。

たとえば〈日本〉語の単語の「そっくり」と互いに同系統の〈日本〉語の単語の「似る」⦅にる⦆と〈日本〉語の単語の「ぐつぐつ」と互いに同系統の〈日本〉語の単語の「煮る」⦅にる⦆は互いにいわゆる同音異義語すなわち同発音異系統語の関係にあるものだがそれらの2つの単語は漢字の訓使いを採用してそれぞれにたとえば「似る」⦅にる⦆と「煮る」⦅にる⦆というように互いに別々の漢字を使って書き分けたほうが漢字の訓使いを採用せずにどちらも共にたとえば「にる」と「にる」というようにただ単にかな文字のみを使って書き被ってしまうよりも〈日本〉語の単語としては互いに遥かに区別しやすいものだ。

(因みにそれらの2つの単語はもし仮にかな文字のみを使って書いたとしてもたとえばその内の〈日本〉語の単語の「似る」⦅にる⦆はたとえば「姉貴に似る」⦅あねきににる⦆というように助詞の「に」と互いに結び付きやすくその派生語の単語の「似せる」⦅にせる⦆をその周辺に持つものだがその内の〈日本〉語の単語の「煮る」⦅にる⦆はたとえば「小豆を煮る」⦅あずきをにる⦆というように助詞の「を」と互いに結び付きやすくその派生語の単語の「煮える」⦅にえる⦆や「煮やす」⦅にやす⦆などをその周辺に持つものだという点などからも互いにいちおうは区別できるものだ。)

漢字の訓使いの良い点その3:異発音同系統語を互いに統一して表せる

そしてまたそれとある意味では同じようにして漢字はひとえに基本的には表語文字であるがゆえにたとえば漢字の訓使いではその漢字のその他のもろもろの表音文字にはけっして真似できないような表語性の高さのおかげでたとえば時代別、地方別などの互いに同根の単語などのようないわゆる異音同義語すなわち異発音同系統語すなわちその発音は互いに異なるがその系統は互いに同じ単語を互いに統一して表せることがあるがこれはなかなか便利でマンモスえもいことだ。

たとえば古典〈日本〉語の単語の「清き」⦅きよき⦆と現代〈日本〉語の沖縄弁の単語の「清さる」⦅ちゅらさる⦆は互いにいわゆる異音同義語すなわち異発音同系統語の関係にあるものだがそれらの2つの単語は漢字の訓使いを採用してどちらも共にたとえば「清き」⦅きよき⦆と「清さる」⦅ちゅらさる⦆というように1つの互いに同一の漢字の「清」⦅セイ・ジョウ⦆を使って書き合わせたほうが漢字の訓使いを採用せずにどちらも共にたとえば「きよき」と「ちゅらさる」というようにただ単にかな文字のみを使って書き下してしまうよりも〈日本〉語の単語としてはその互いの深遠なる結び付きが遥かに見い出しやすいものだ。

漢字の訓使いの良い点その4:単語の図画を表せる

またこれは漢字の訓使いの全ての場合いについて言えることではないがその中でも特に図画文字の漢字を使った漢字の訓使いの場合いにはその単語を象徴する図画をその他の外部の挿し絵などの手はいっさい借りなくても表せるというこれまた別のもう1つのとても優れた特徴がある。たとえば主に子供や外国人など向けの教科書や辞書や単語集などではその単語を象徴する図画などがよく補助的な情報として乗っていることがあるがそのような図画文字の漢字を使った漢字の訓使いの場合いにはただ単にその単語そのものをその図画文字の漢字を使って特に何も考えずにさらっと書いてしまうだけでそれと全く同じような効果がいつの間にか産み出されてくれることになる。

たとえば「月」⦅つき、ゲツ・ガツ⦆という図画文字の漢字はその甲骨文字体や青銅器文字体などの字体を見てみるとより顕著にわかることだが場合いによってはまるで月を象徴する美しい挿し絵のような効果を持つものだ。

漢字の訓使いの良い点その5:単語の大体の意味を表せる

また漢字はもし仮に図画文字の漢字ではなかったとしてもその絶対的に大多数の場合いには何らかの義符を持っているものだがまたそれゆえに漢字はもし仮にその単語の完全に正確な発音や意味などはわからなかったとしてもその単語の大体の意味だけであればピンからキリまである程度までは正確に予想できるようにしてくれることが多いものだ。

たとえば「蜂」⦅はち、ホウ⦆、「蛇」⦅へび、ダ⦆、「蛙」⦅かえる、ア⦆、「蝦」⦅えび、ロウ⦆、「蛸」⦅たこ、ショウ⦆などの漢字はどれも義符の「虫」⦅むし、チュウ⦆を持っているものだがまたそれゆえにそこでは「それらの漢字はどれも昆虫類、爬虫類、両生類、甲殻類、魚貝類⦅ギョバイルイ⦆などをきっと表しているのだろうな」などとある程度までは正確に予想できるものだ。

漢字の訓使いの良い点その6:全自動漢字学習装置として機能する

さてその目下話題沸騰中の「漢字の訓使い」⦅カンジのクンがき⦆という言葉の中にも出てくるその「訓」⦅クン⦆という漢字についてはその漢字に対してふさわしい何らかの〈和〉単語を決めるに当たってはこの世の中の4方8方でその意見が互いに明確に1致するようなそんな最善の唯一無二の候補などがあるわけではないがその「訓」⦅クン⦆という漢字は歴史上は時として「訓える」⦅おしえる⦆という意味を持っているものだと考えられたこともあった。またその他にもその「訓」⦅クン⦆という漢字は場合いによってはたとえば「導く」⦅みちびく⦆、「諌める」⦅いさめる⦆、「鍛える」⦅きたえる⦆、「飼い慣らす」⦅かいならす⦆などに近いような意味を持っているものだとも考えれるかもしれない。しかしまあいずれにせよその「漢字の訓使い」⦅カンジのクンがき⦆という言葉は言うならば「〈日本〉人たちに対して漢字の意味を「訓える」⦅おしえる⦆ようなそんな〈和〉単語に対する漢字を使った表記である」というようなある種の大まかな意味合いを持つものとしてひとまずは解釈しておけば良いだろう。そしてまた〈日本〉人たちがこの今現在の日本のすばらしい状況のように日本とは互いに海を隔てた外国である中国原産の漢字のことをなぜこんなにもうまく立派に使いこなせるようになったのか?というとそれはつまりはそのような漢字の訓使いは〈日本〉人たちにとってはかの「名は体を表す」という至極の格言にもあるようにまさしくある種の全自動漢字学習装置として機能するものに他ならなかったからだ!と考えれるものだ。

たとえば〈日本〉人たちは漢字の訓使いの「森」⦅もり⦆を見るとたとえば「ああなるほどその漢字の「森」⦅もり、シン⦆には「森」⦅もり⦆という意味があるのだな!」というようにその漢字の「森」⦅もり、シン⦆のことを特に大して意識も努力も苦労もしないままにあれよあれよという間に全自動ですらっすらっと学習してしまうことになるがいやはやもし仮にそれが全自動漢字学習装置ではないならばいったい何だというのだろうか?

漢字の訓使いの良い点その7:〈和〉単語に対する漢字の代理語化が達成される

そしてまたそのようにして〈日本〉人たちが漢字の訓使いを日々実践することで何らかの特定の〈和〉単語と何らかの特定の漢字が互いに強固に結び付いてくるとその特定の漢字はその特定の〈和〉単語とまるである種の専属代理人契約を結んだかのような状態になりその特定の漢字はたとえ漢字の本使いの表語の用法としてすなわちごくごく普通の何の変哲もない〈漢〉単語として使われていたとしても常にその特定の〈和〉単語に対する代理語のようにしてふるまうようになる。そしてまさにそれこそがいわゆる「〈和〉単語に対する漢字の代理語化」⦅The Representation Of Japanese Words By Kanzi⦆などと呼ばれる現象に当たるものだがあるいはそれはもっと言ってしまえば〈和〉単語に対する漢字の家畜化や奴隷化などと呼ばれる現象に当たるものでもありあるいはそれはもっと言ってしまえば大和の日の本のまるで太陽のように光り輝く天皇に対して中国のまるで犬豚のように色欲貪婪にまみれた皇帝があわれにみじめにひざまづいた瞬間などと呼ばれる現象に当たるものでもある。

たとえば〈英〉語の「UK」⦅ユー・ケー⦆という言葉は「The United Kingdom」⦅ザ・ユナイテッド・キングダム、イギリスの4王国の連合王国⦆という言葉の代理語として機能するものだがそこではその「U」⦅ユー⦆という文字は「United」⦅ユナイテッド、連合性の⦆という言葉の代理語として機能しているものでありまたその「K」⦅ケー⦆という文字は「Kingdom」⦅キングダム、王国⦆という言葉の代理語として機能しているものだ。

またたとえば〈英〉語の「DNA」⦅ディー・エヌ・エー⦆という言葉は「Deoxyribo Nucleic Acid」⦅ディオクシリボ・ニュークレイック・アシッド、デオキシリボ核酸⦆という言葉の代理語として機能するものだがそこではその「D」⦅ディー⦆という文字は「Deoxyribo」⦅ディオクシリボ、糖の1種の名称『デオキシリボ』⦆という言葉の代理語として機能しているものでありまたその「N」⦅エヌ⦆という文字は「Nucleic」⦅ニュークレイック、核となる⦆という言葉の代理語として機能しているものでありまたその「A」⦅エー⦆という文字は「Acid」⦅アシッド、酸⦆という言葉の代理語として機能しているものだ。

またたとえば〈英〉語の「NASA」⦅ナサ⦆という言葉は「The National Aeronautics And Space Administration」⦅ザ・ナショナル・エアロノーティクス・アンド・スペース・アドミニストレーション、アメリカの国家航空宇宙局⦆という言葉の代理語として機能するものだがそこではその「N」⦅エヌ⦆という文字は「National」⦅ナショナル、国家性の⦆という言葉の代理語として機能しているものでありまたその全体の2文字目の「A」⦅エー⦆という文字は「Aeronautics」⦅エアロノーティクス、航空かつ航宇宙の⦆という言葉の代理語として機能しているものでありまたその「S」⦅エス⦆という文字は「Space」⦅スペース、宇宙空間の⦆という言葉の代理語として機能しているものでありまたその全体の4文字目の「A」⦅エー⦆という文字は「Administration」⦅アドミニストレーション、運営局⦆という言葉の代理語として機能しているものだ。

そしてまたそれと全く同じようにして漢字はたとえば漢字の訓使いによって何らかの特定の〈和〉単語と互いに強固に結び付いてくるとその特定の〈和〉単語に対して忠実に仕える良きしもべとなりその特定の〈和〉単語に対するその現場の末端の世界でのかくも有能なる代理語として機能してくれるようになる。

たとえば〈日本〉語の「安眠」⦅アン・ミン⦆という言葉は「安らかな眠り」⦅やすらかなねむり⦆という言葉の代理語として機能するものだがそこではその「安」⦅アン⦆という漢字は「安らかな」⦅やすらかな⦆という〈和〉単語の代理語として機能しているものでありまたその「眠」⦅ミン⦆という漢字は「眠り」⦅ねむり⦆という〈和〉単語の代理語として機能しているものだ。

またたとえば〈日本〉語の「捕鯨船」⦅ホ・ゲイ・セン⦆という言葉は「鯨を捕まえる船」⦅くじらをつかまえるふね⦆という言葉の代理語として機能するものだがそこではその「捕」⦅ホ⦆という漢字は「捕まえる」⦅つかまえる⦆という〈和〉単語の代理語として機能しているものでありまたその「鯨」⦅ゲイ⦆という漢字は「鯨」⦅くじら⦆という〈和〉単語の代理語として機能しているものでありまたその「船」⦅セン⦆という漢字は「船」⦅ふね⦆という〈和〉単語の代理語として機能しているものだ。

またたとえば〈日本〉語の「家庭菜園」⦅カ・テイ・サイ・エン⦆という言葉は「家の庭の菜っぱの園」⦅いえのにわのなっぱのその⦆という言葉の代理語として機能するものだがそこではその「家」⦅カ⦆という漢字は「家」⦅いえ⦆という〈和〉単語の代理語として機能しているものでありまたその「庭」⦅テイ⦆という漢字は「庭」⦅にわ⦆という〈和〉単語の代理語として機能しているものでありまたその「菜」⦅サイ⦆という漢字は「菜っぱ」⦅なっぱ⦆という〈和〉単語の代理語として機能しているものでありまたその「園」⦅エン⦆という漢字は「園」⦅その⦆という〈和〉単語の代理語として機能しているものだ。

〈英〉語ではその単語の頭文字がその単語そのものの代理語として機能することが多いが〈日本〉語ではその漢字がその漢字の訓使いを通して互いに結び付いている〈和〉単語の代理語として機能することが多い。〈日本〉語はその他のもろもろの言語と比べるとある意味ではそのような〈和〉単語に対する漢字の代理語化が極めて著しく例外的に発達している言語だとも言えるがそれはつまりは〈日本〉語ではその〈和〉単語そのものをわざわざ長ったらしく書き散らさなくてもそのもはや代理〈和〉単語化された漢字をささっと短く書きさえすればたったそれだけでまるで全ての事象をその背後から自らの思うがままに自由自在に巧みに操るかのようなそんなある種の影の元締めのようなその〈和〉単語そのものすらをもしっかりとほのめかせてしまうということでもある。

(因みにイギリスやアメリカなどの〈英〉語文化圏ではたとえば手紙などでその差し出し人の名前をその差し出し人の個人名や家族名などの頭文字だけを使って頭文字名⦅イニシャル・ネーム⦆として署名するということが日本と比べるとかなり1般的に行なわれているがイギリスやアメリカなどの〈英〉語文化圏での推理小説などではその推理小説を執筆する上でのご都合上の問題なのかどうかはよく知らないがたとえば手紙などでその差し出し人の名前を完全名⦅フル・ネーム⦆としては署名せずに頭文字名⦅イニシャル・ネーム⦆としてだけ署名するせいでなぜかやたらと事件の捜査が難航してしまうといったようなことがまままま起きたりしがちなものだ。)

漢字の訓使いの悪い点その1:表音性が不完全になる

漢字は基本的には表語文字として使われることが多いものだがまたそれゆえに漢字はその漢字の表音性の問題に関してのみ言うとこの漢字の訓使いの場合いも含めてたとえばその他のかな文字やローマ字などの何らかの特定の言語に対して音素単位や音節単位などでの表記ができる文字と比べるとどうしても不完全で貧弱な部分が出てきてしまうことが多いものだ。またそれゆえに漢字の訓使いではその漢字の表音性を何らの誤解の余地もいっさいない100%完全無欠の理想の状態にまで高めようと思えばたとえばその1つ1つの全ての事例でふりがなや読みがななどを付けるというような対応を取ることなどが考えれるしもちろんそのようにしてその1つ1つの全ての事例でふりがなや読みがななどを付けるというような対応を取ることはたとえば主に子供や外国人など向けの絵本、漫画、学習書などでは実際によく見られるものでありけっして不可能なことではないがしかしまたそれはそれなりに手間の掛かる作業ではありえることだ。

漢字の訓使いの悪い点その2:筆記や入力などの手間が掛かる

また漢字の訓使いではもちろんその漢字の字体の差異などによってもその細かな数字や状況などは色色と変わってくるものなので1概には言えないものだがたとえばかな文字書きの場合いと比べると紙の上での筆記の場合いにはその文字の筆記の画数が基本的にはどちらかと言うと増えてしまいがちな所があるものだしコンピューター上での入力の場合いにはその文字の入力の工程が基本的にはかなり複雑になってしまいがちな所があるものだ。もちろんたとえば漢字の「一」⦅ひと、イチ⦆や漢字の「人」⦅ひと、ジン・ニン⦆などのようにかな文字書きの場合いよりもむしろ漢字の訓使いの場合いのほうがその文字の筆記の画数が減るものなどもいちおうあるにはあるがこの点については全体的な傾向としてはかな文字書きの場合いよりもむしろ漢字の訓使いの場合いのほうが何かと分が悪いものだ。

漢字の訓使いの悪い点その3:記憶の負担が増える

また漢字の訓使いではもし仮にその〈日本〉語の文章をふりがなや読みがななどの表音文字を特にはあえては使わずに書くとすればそれを書く側の人たちからしてもそれを読む側の人たちからしてもそのどちらの側の人たちからしても共にその目下の手元にある〈日本〉語の文章ではいったいどの〈和〉単語とどの漢字が互いに対応しているのか?ということがある種の〈和〉単語と漢字の互いの1対1の対応表のようなものとしてその自分の頭や精神などの中に事実上しっかりと入っていなければならないことになるがこれはひとえにそのような漢字の訓使いを使って書かれる〈日本〉語の文章に関わる全ての人たちの記憶の負担を大いに増やすものだ。

漢字の訓使いの悪い点その4:政治的な合意形成が難しい

また漢字の訓使いではそもそも人の記憶の負担以前の問題としていったいどの〈和〉単語とどの漢字が互いに対応するのか?あるいはもっと言ってしまえばいったいどの〈和〉単語とどの漢字が互いに対応するべきなのか?ということについて何らかの形で前もって取り決めを交わしておかなければならないがその時にはその点についてはそもそもいったいどのようにして政治的な合意形成に至るのか?というまた別の極めて難しい問題もある。たとえばある人は「Aという〈和〉単語に対してはBという漢字を当てるべきだ!」と考えるかもしれないがまた別のある人は「Aという〈和〉単語に対してはCという漢字を当てるべきだ!」と考えるかもしれない。またこの世の中にはひねくれ者もあほうも多少はいるだろうがそれらの潜在的な不満分子や反逆分子などを何らかの形で強権的に弾圧するためにはその強権的な弾圧をきちんと正当化できるだけのある種の明確な根拠が必要になってくるかもしれない。

漢字の訓使いの悪い点その5:同発音同系統語に対して濫用される

また漢字の訓使いではいわゆる同音異義語すなわち同発音異系統語を互いに別々の漢字を使ってきちんとわかりやすく書き分けるのはなかなか良いことかもしれないがまた逆にそれが行き過ぎていわゆる同音同義語すなわち同発音同系統語まで互いに別々の漢字を使ってやたらと創意工夫を凝らして書き分けてしまうのは筆者の考えではある種の漢字の訓使いの濫用に当たるものでありある種の漢字依存症に当たるものでありとっても悪い子ちゃんたちのするとってもイ・ケ・ナ・イ♡火遊びに他ならないものだ。たとえば同発音同系統語の「思う」⦅おもう、ただ単に思う⦆と「想う」⦅おもう、誰か大切な人を思う⦆をたとえばJ-POPの楽曲の歌詞などでよく見られるように互いに別々の漢字を使ってやたらと創意工夫を凝らして書き分けてしまうのは筆者の考えでは「さていかがなものか?」と思わずにはいれないものだ。

〈漢〉単語の表記

さて〈漢〉単語はいったいどう表記されるべきだろうか?〈漢〉単語は1つ以上の漢字が互いに組み合わさることで産み出されるものだがまたそれゆえに〈漢〉単語はごくごく普通に考えればそのまま漢字を使って表記するのがいかにも合理的で好ましいようにも思える。そしてまた〈漢〉単語をそのようにしてそのまま漢字を使って表記することの良い点や悪い点などはそのまま漢字の本使いそのものの良い点や悪い点などとも互いにおおよそぴったりと重なるものだがしかしまたこの世の中にはそんな中華風の〈漢〉単語すらをもたとえばかな文字やローマ字などの表音文字を使って書いてしまうべきだ!と考える人たちも日本では基本的にはかなりの少数派ながらもいちおういるにはいるものだ。

漢字の本使いの良い点その1:単語の原産地を表せる

たとえばもし仮に〈漢〉単語の単語をたとえばかな文字やローマ字などの表音文字を使って書いてしまったとするとその時にはそこではその内のいったいどの単語が日本原産の〈和〉単語の単語でありその内のいったいどの単語が中国原産の〈漢〉単語の単語なのか?ということがそれらの〈和〉単語の単語と〈漢〉単語の単語が互いにぐちゃぐちゃに混濁してしまうことでとてもわかりにくくなってしまうことになるがこれはそれぞれの個々の単語の原産地を・・・そしてまた引いてはそれぞれの個々の単語の成り立ちや語源などを決定する上ではある種の大きな悩みの種となってしまうことであり基本的にはあまり頂けないことだ。しかしまたその1方でたとえばもし仮にそこではたとえば「〈和〉単語の単語は必ずかな文字や漢字の訓使いなどを使って書くが〈漢〉単語の単語は必ず漢字の本使いを使って書く」というようにある種の明快な規則をきちんと定めておけばそのような〈和〉単語の単語と〈漢〉単語の単語の互いのぐちゃぐちゃの混濁の危険性は1般的にはかなり少なくなってくれるはずだろうと思われる。

たとえば〈日本〉語の単語の「作り置き」⦅つくりおき⦆は漢字の訓使いを使って書かれる〈和〉単語の単語であり〈日本〉語の単語の「受注生産」⦅ジュチュウセイサン⦆は漢字の本使いを使って書かれる〈漢〉単語の単語だがそこではそれらの〈和〉単語の単語と〈漢〉単語の単語は互いに極めて容易に区別されうるものだ。

また実際問題として今やその他の漢字文化圏の国々の言語である韓国語、朝鮮国語、ベトナム語などは基本的に全てハングル文字やローマ字などの表音文字を使って書かれるのがごくごく普通になってきているが韓国人、朝鮮人、ベトナム人などは基本的にはその内のいったいどの単語が自国原産の個有語の単語でありその内のいったいどの単語が中国原産の〈漢〉単語の単語なのか?ということがもはやそこまで正確には判別できなくなってきてしまっている所がちょくちょくと出てきてしまっている所がある。

⦅因みに韓国語や朝鮮国語などの自国原産の個有語の単語の中にはたとえば「쌀」⦅サル、お米⦆や「닭」⦅タク、にわとり⦆などのように韓国語や朝鮮国語などの中国原産の〈漢〉単語の単語の中には出現しない2重子音が出現するものがあるがまたそれゆえに韓国語や朝鮮国語などでは殊にそのようなある種の特殊な2重子音が出現する単語に限って言えば自国原産の個有語の単語を中国原産の〈漢〉単語の単語の中からうまく適切に見分けて見つけ出すのもそれほど難しくはないはずだがその他のもろもろの単語について言えば自国原産の個有語の単語を中国原産の〈漢〉単語の単語の中からうまく適切に見分けて見つけ出すのは場合いによっては極めて難しいのが誠に遺憾ながらの現実だ。⦆

漢字の本使いの良い点その2:同発音異系統語を互いに区別して表せる

また漢字の本使いでは前述の漢字の訓使いの場合いと同じでその漢字はしばしばいわゆる同音異義語すなわち同発音異系統語すなわちその発音は互いに同じだがその系統は互いに異なる単語を互いに明確に区別して表せることがある。

たとえば〈日本〉語の単語の「錯覚」⦅サッカク⦆と〈日本〉語の単語の「錯角」⦅サッカク⦆は互いにいわゆる同音異義語すなわち同発音異系統語の関係にあるものだがそれらの2つの単語は漢字の本使いを採用してそれぞれにたとえば「錯覚」⦅サッカク⦆と「錯角」⦅サッカク⦆というように互いに別々の漢字を使って書き分けたほうが漢字の本使いを採用せずにどちらも共にたとえば「サッカク」と「サッカク」というようにただ単にかな文字のみを使って書き被ってしまうよりも〈日本〉語の単語としては互いに遥かに区別しやすいものだ。

漢字の本使いの良い点その3:単語の図画を表せる

また漢字の本使いではたとえば1部の図画文字の漢字などの場合いには前述の漢字の訓使いの場合いと同じでその漢字はしばしばその単語を象徴する図画を表せることがある。

たとえば漢字の「犬」⦅いぬ、ケン⦆、漢字の「兎」⦅うさぎ、ト⦆、漢字の「象」⦅きさ、ゾウ⦆、漢字の「羊」⦅ひつじ、ヨウ⦆、漢字の「馬」⦅うま、バ⦆、漢字の「牛」⦅うし、ギュウ⦆、漢字の「鹿」⦅しか、ロク⦆などのような図画文字の漢字はどれも何かしらの種類の動物の図画を表すものだがそれはこの漢字の本使いの場合いにも前述の漢字の訓使いの場合いにもどちらも共にさして変わらないことだ。

漢字の本使いの良い点その4:単語の大体の発音を表せる

また漢字の本使いではたとえば音符入りの形声文字の漢字などの場合いには前述の漢字の訓使いの場合いとは違いその漢字はしばしばその単語の大体の発音を表せることがある。漢字の音符は色色な要因によってひとえにその単語の100%完全に正確無比な発音ではなくあくまでもその単語の大体の発音までしか表せないものだがしかしまたそれでもひとえにその単語のいっさいの発音を何ら表せないわけではなくむしろその単語の大体の発音だけでもそれなりに多少は表せるのはなかなか喜ばしいことだ。

たとえば漢字の「艱」⦅カン⦆、漢字の「根」⦅コン⦆、漢字の「恨」⦅コン⦆、漢字の「痕」⦅コン⦆、漢字の「眼」⦅ガン⦆、漢字の「銀」⦅ギン⦆、漢字の「限」⦅ゲン⦆などのような音符の「艮」⦅コン・ゴン⦆入りの形声文字の漢字はどれも互いに似通った発音を持ったものだがそのような漢字の音符の有無はこの漢字の本使いの場合いと前述の漢字の訓使いの場合いでは互いに大きく異なることだ。

漢字の本使いの良い点その5:単語の大体の意味を表せる

また漢字の本使いではたとえば義符入りの会意文字や形声文字などの漢字などの場合いには前述の漢字の訓使いの場合いと同じでその漢字はしばしばその単語の大体の意味を表せることがある。

たとえば漢字の「鮎」⦅あゆ、デン⦆、漢字の「鯰」⦅なまず、ネン⦆、漢字の「鮭」⦅さけ、ケイ⦆、漢字の「鰻」⦅うなぎ、マン⦆、漢字の「鮪」⦅まぐろ、ユウ⦆、漢字の「鯖」⦅さば、セイ⦆、漢字の「鱈」⦅たら、セツ⦆などのような義符の「魚」⦅うお、ギョ⦆入りの会意文字や形声文字などの漢字はどれも何かしらの種類の魚を表すものだがそれはこの漢字の本使いの場合いにも前述の漢字の訓使いの場合いにもどちらも共にさして変わらないことだ。

漢字の本使いの悪い点その1:表音性が不完全になる

また漢字の本使いではたとえば音符入りの漢字の場合いであれ音符入らずの漢字の場合いであれその漢字の表音性の問題に関してのみ言うと前述の漢字の訓使いの場合いと同じでたとえばその他のかな文字やローマ字などの何らかの特定の言語に対して音素単位や音節単位などでの表記ができる文字と比べるとどうしても不完全で貧弱な部分が出てきてしまうことが多いものだ。

漢字の本使いの悪い点その2:筆記や入力などの手間が掛かる

また漢字の本使いでは前述の漢字の訓使いの場合いと同じでもちろんその漢字の字体の差異などによってもその細かな数字や状況などは色色と変わってくるものなので1概には言えないものだがたとえばかな文字書きの場合いと比べると紙の上での筆記の場合いにはその文字の筆記の画数が基本的にはどちらかと言うと増えてしまいがちな所があるものだしコンピューター上での入力の場合いにはその文字の入力の工程が基本的にはかなり複雑になってしまいがちな所があるものだ。またその中でも特に漢字の本使いの表音の音写の用法について言えばたとえば「亚伯拉罕・林肯」⦅アブラハム・リンカーン、Abraham Lincoln⦆というように現代〈中国〉語のその画数が比較的少なめの簡体字体の漢字を使ってもなおかな文字書きの場合いよりもむしろ漢字の本使いの場合いのほうが基本的には遥かに分が悪いものだ。

漢字廃止論の問題点

この今のナウい時代の日本ではそれほど主流派ではないが歴史的に見ればこの1見すると漢字のことが大大大好きであるかのようにも見える日本でもいくたびかあるいは見方によっては何度も何度も根強く漢字廃止論すなわち〈日本〉語の正書法から漢字を完全に廃止してしまって〈日本〉語の正書法をかな文字専用やローマ字専用などへといざ思い切って変えてしまうべきだ!と主張するような議論や提言などが折りに触れて沸き起こってきた。またその他の外国の事情をちらっと覗き見してみてもその他の漢字文化圏の国々である韓国、朝鮮国、ベトナムなどではそのような漢字廃止論がやたらと強大な力や支持などを得てしまったがためにそれらのその他の漢字文化圏の国々の言語である韓国語、朝鮮国語、ベトナム語などの正書法からはその全ての言葉の中でその内の〈漢〉単語系の言葉が占めている割り合いの結構な高さにも関わらず実際に漢字が基本的には完全に廃止されてしまうことになった。さてそのような漢字廃止論にはもちろん1長1短があるがそのような漢字廃止論の良い点とはつまりはその漢字の表音性の悪さを1挙に完全に解消できるということでありまた逆にそのような漢字廃止論の悪い点とはつまりはその漢字のこれまでにも順を追って色色と見てきたようなありとあらゆるもろもろの良い点が全てきれいさっぱり跡型もなく失われてしまうということだ。またその中でも特に〈日本〉語の正書法にまつわる漢字廃止論の問題点についてもう少し幅広い文脈からもういくつか考慮しておくことがあるとすればそれはつまりは「古典〈中国〉語の文書との距離の拡大」、「漢字の本使いの発音の重複の増加」、「かな文字による空間の浪費」という3つの問題へとすぐさま行き着くことになる。

古典〈中国〉語の文書との距離の拡大

もし仮に〈日本〉語の正書法から漢字を完全に廃止してしまったとするとその時には〈日本〉人たちの中で漢字をわざわざたとえば趣味や教養などとして学習しようとするような奇特な人たちの数は当然のようにがくっと減ってしまうことになるだろうしそしてまたそうすると〈日本〉人たちの中で漢字をそれなりにある程度までは自由自在に使いこなせるような有能な人たちの数も当然のようにがくっと減ってしまうことになるだろう。そしてまたそうすると〈日本〉人たちはたとえば日本の最古級の神話歴史書である『古事記』⦅コジキ⦆や『日本書紀』⦅ニホンショキ⦆などを始めとしてたとえば『般若心経』⦅ハンニャシンギョウ⦆、『論語』⦅ロンゴ⦆、『易経』⦅エキキョウ⦆、『史記』⦅シキ⦆、『西遊記』⦅サイユウキ⦆などのようにその他のもろもろの仏教書、思想書、哲学書、学術書、歴史書、文学書などを含む古典〈中国〉語を使って書かれた〈日本〉国内外のありとあらゆる貴重な文献や資料などが〈日本〉語にわざわざ翻訳されたものを除いては読めなくなってしまうことになるだろうがそのような不測の事態は日本での少なくともおよそ1500年以上にも及ぼうかというような古典〈中国〉語を使って書かれた色色な種類の文献や資料などとの極めて濃密な関わりの重みを考えるともはやある種の「文明上の」と言っても良いほどのとても大きな損失ではないだろうか?

漢字の本使いの発音の重複の増加

また〈日本〉語の漢字の本使いの発音はたとえば〈中国〉語やその他の漢字文化圏の国々の言語である韓国語、朝鮮国語、ベトナム語などの漢字の本使いの発音と比べると色色な要因によってかなり簡略化されたものになってしまっているがまたそれゆえに互いにかなり重複したものになりやすくなってしまっている。

たとえば〈中国〉語、韓国語、朝鮮国語、ベトナム語などでは漢字の本使いの「広」⦅ひろい、コウ⦆の発音は大まかに言うと「Gwang」⦅クヮン⦆や「광」⦅クヮン⦆などであり漢字の本使いの「高」⦅たかい、コウ⦆の発音は大まかに言うと「Gau」⦅カウ⦆や「고」⦅コ⦆などであり互いに明確に区別されているものだが〈日本〉語では漢字の本使いの「広」⦅ひろい、コウ⦆の発音は「コウ」であり漢字の本使いの「高」⦅たかい、コウ⦆の発音は「コウ」であり互いに完全に重複したものになってしまっている。

まあもちろんそうは言っても〈日本〉語の音声言語に限って言えばそのような漢字の本使いの発音の重複の多さはいちおうはそれなりにうまく特に大きな問題もなく処理されているわけでありまたそれゆえにそこではそれがそのままただちにそのような漢字廃止論のある種の致命的な破綻へと可及的に速やかにつながっていくわけではけっしてないが〈日本〉語とそれらの〈中国〉語、韓国語、朝鮮国語、ベトナム語などではその漢字の本使いの発音の重複の度合いが互いに大いに異なっているというちょっとした事実についてはきちんと認識しておいて損ではないだろう。

かな文字による空間の浪費

また〈日本〉語の漢字の本使いの発音は色色な要因によってたとえば「発」=「ハツ」というように場合いによっては1文字分の漢字に対して2文字分のかな文字を使って表されることがよくあるがこれはたとえば韓国語や朝鮮国語などの漢字の本使いの発音はそのハングル文字の設計上たとえば「発」=「발」⦅パル⦆というように基本的には必ず1文字分の漢字に対して1文字分のハングル文字を使って表されることになるというのと比べるとある意味では空間の浪費に当たるものだ。

漢字制限論の問題点

世間1般ではどちらかと言うとかなりの過激派である漢字廃止論まではそれほど熱烈には支持しないまでもたとえばより穏健派である漢字制限論すなわち「漢字はそもそも数が多すぎるからもっと数を減らすべきだ!」だとかあるいは「漢字はそもそも全体的に難しすぎるからたとえば1部の特に難しい漢字だけでも良いからもっとかな文字を使って書くべきだ!」だとかいうようないかにもまじめそうでセンスのなさそうな意見に対してはそれなりに同調する声もある。

漢字の数はけっして多くはない

さて世間1般では時としてたとえば漢字は何千個、何万個という数のものがあるがこれはたとえばローマ字はたった20個、30個ほどの数のものしかないというのと比べるとあまりにも数が多すぎるのではないか?というようなある種の素朴な疑問が呈されることがあるがこれはそもそも漢字は基本的にはそれ自体で1つの単語であるという事実にかんがみればただの大いなる誤解の結果に過ぎないものだ。なぜならそのような漢字の数はたとえばローマ字の数と比べてみると確かにそれなりに多いようにも感じられるがたとえば欧米語の単語の数と比べてみるとけっしてそこまでべらぼうに多いわけではなくむしろ互いに同じぐらいかいやそれどころかむしろめちゃくちゃ少なすぎるぐらいだからだ!

また欧米語の単語はたとえばローマ字を使って表記するとそのローマ字の数が少ない分だけそのローマ字の複雑な配列の知識が大いに必要になってくるがこれは実際には身に付けて覚えるのがとっても大変なことだ。しかしまたその1方で〈日本〉語や〈中国〉語などの〈漢〉単語はたとえば漢字を使って表記するとその漢字の数が多い分だけその漢字の複雑な配列の知識はそれほど必要にはならないがこれは実際には身に付けて覚えるのがとっても楽ちんなことだ。

漢字は全ては理解されなくても良い

そしてまたそのような漢字制限論をより積極的に推進していきたい立ち場の側の人たちがよく言うことの中にはたとえば漢字が苦手な人たちや漢字が理解できない人たちなどが何かにつけて困ったりしないようにするためにもこの世間1般の社会の中で日常的によく使われる漢字の数はもっと厳しく制限されてしかるべきだ!というようなものがある。さてこれに対しては筆者はずばり漢字はそもそも全ては理解されなくても良いしまたもし仮に必要ならばその1部の特に難しいとされる漢字に対してはたとえばふりがな、読みがな、説明、注釈などを適宜付けたりすれば良いのだ!と自信を持って返したい。

人がこの世の中の森羅万象の中でより細かな違いを認識できるようになることとはつまりはある種の知的な洗練に他ならないものだがそのようなある種の知的な洗練があったからこそそれらの漢字の数は太古の昔から今日の今日に至るまでずっと1貫してじわりじわりと増え続けてこれたのだ!そしてまたもし仮にそれが事実であるとすればそのような漢字制限論とはつまりは人類の知的な水準を下に合わせてどんどんと下げていくようなそんなデタラメ無価値な政策に他ならないものであることになるしいよいよ何となればそれはまさしくこの世の中に醤油とウスター・ソースの互いの区別も満足には付かないような人たちをつぎつぎと大量に産み出してしまうようなそんな〈中国〉人もびっくりの悪夢の愚民化政策に他ならないものだ。

〈日本〉語の純〈和〉単語化論

そしてまたもし仮にそのような漢字廃止論や漢字制限論などをさらに強力に押し進めていったとするとその時にはその最終的かつ究極的なあかつきには〈漢〉単語排斥論すなわち〈日本〉語の純〈和〉単語化論すなわち〈日本〉語から〈漢〉単語を完全に排斥してしまって〈日本〉語を純〈和〉単語化してしまうべきだ!と主張するようなある意味では超愛国主義的な思想へといずれは行き着くことになる。そのような〈日本〉語の純〈和〉単語化論には確かに1理はあるし〈日本〉語である以上はその地元の本来の言葉である〈和〉単語こそをまずいの1番に大事にするのは確かに基本的にはすごく良いことなのかもしれない。たとえば西洋暦の紀元後1000年頃の平安時代の日本で書かれた長編小説の内の1つに小説の『源氏物語り』⦅ゲンジものがたり⦆と呼ばれるその当時の生の原文をそのまま頑張って読むのは現代の1般の市井の人たちにはあまりにも長すぎてあまりにも難しすぎてまかり間違ってもとうていお薦めできない作品があるがその小説の『源氏物語り』⦅ゲンジものがたり⦆では1部の主に仏教系、律令制系の単語を除いてはその全体の8割り方、9割り方の単語が全て〈和〉単語で占められていた。

本書では漢字の訓使いによってごろにゃ~んいや~んと飼い慣らされた漢字はもはや本質的には代理〈和〉単語なのだ!という点をことさらに強調することでひとまずはそのような〈日本〉語の純〈和〉単語化の理想に燃える人たちを大いになだめる方針を取ることにしておこう。

欧米語の表記

さて欧米語はいったいどう表記されるべきだろうか?1つには欧米語は基本的にはカタカナを使って表記されるべきだ!というような考え方がありそしてまたそうすると欧米語はたとえばひらがなや漢字などを使って書かれる〈和〉単語や〈漢〉単語などとは互いにひと目ぱっと見での区別が付きやすくなってくれることになるがこれは基本的には筆者もその他の大勢の人たちも皆こぞってにこにこと仲良く賛同してしまうようななかなかの名案に他ならないものだ。

欧米語の氾濫の問題点

しかしまたここ最近のやさぐれてしまって堕落してしまった〈日本〉語では欧米の文化に対するもはや全身全霊の盲目的な崇拝と言っても良いほどの強い憧れからなのか?はたまた情報通信技術の多大なる進歩によって加速度的にもたらされるこの世の中の地球規模的な国際化の影響の余波からなのか?そのような欧米語がやたらめったら大量に流入して使われるようになってきてしまっているようなきらいもある。さてそのような〈日本〉語の単語の中での欧米語の勢力の拡大にはもちろん1長1短があるが欧米語はもはや代理〈和〉単語と化してしまっていることが多い〈漢〉単語と比べると〈和〉単語との互いの結び付きがあまりにも希薄であるという点はそうやすやすと見逃すわけにはいかない点だ。たとえば〈日本〉語の単語の中ではそれらの欧米語の大いなる繁栄はすなわち必然的にその他の〈和〉単語や〈漢〉単語などの単語の大いなる衰退を意味することになるがまたそれゆえに〈日本〉人たちがそのような欧米の文化やら何やらに対してこのままどんどんと「ご機嫌いかが?」とひどく酩酊しては「まあええじゃないか!」と見境なくかぶれ続けていってしまったとすればその時にはこの何ともゆゆしくも気まぐれな世界では〈日本〉語の1般のよく使われる単語の中からはそれらの〈和〉単語そのものがついには大量に絶滅してしまう!というようなある種の万が1にも最悪の事態が生じてしまう可能性も全くないとは言いきれないものだ。

〈和〉単語や〈漢〉単語などによる欧米語の言い換え

またそれゆえに〈和〉単語や〈漢〉単語などによる欧米語の言い換えは〈日本〉語のその地元の本来の言葉である〈和〉単語の保護のためにも今よりももっともっともっと積極的に推奨されていくべきだ!ということになるわけだがさてところで〈中国〉語では〈漢〉単語による欧米語の言い換えはそのような〈日本〉語の中での〈和〉単語や〈漢〉単語などによる欧米語の言い換えと比べるといくぶんかより先へと進んでいるものなのでそれについては〈日本〉人としても何かと参考になる点が多いものだ。

たとえば「Belt」⦅ベルト⦆という欧米語の単語は〈日本〉語ではたとえば「ベルト」というようにそのままカタカナを使って音写されがちなものだが〈中国〉語ではたとえば「皮帯」⦅ヒタイ⦆というようにきちんと〈漢〉単語として言い換えられがちなものだ。

またたとえば「Computer」⦅コンピューター⦆という欧米語の単語は〈日本〉語ではたとえば「コンピューター」というようにそのままカタカナを使って音写されがちなものだが〈中国〉語ではたとえば「電脳」⦅デンノウ⦆というようにきちんと〈漢〉単語として言い換えられがちなものだ。

またたとえば「Risk」⦅リスク⦆という欧米語の単語は〈日本〉語ではたとえば「リスク」というようにそのままカタカナを使って音写されがちなものだが〈中国〉語ではたとえば「風険」⦅フウケン⦆というようにきちんと〈漢〉単語として言い換えられがちなものだ。

またたとえば「Programming」⦅プログラミング⦆という欧米語の単語は〈日本〉語ではたとえば「プログラミング」というようにそのままカタカナを使って音写されがちなものだが〈中国〉語ではたとえば「編程」⦅ヘンテイ⦆というようにきちんと〈漢〉単語として言い換えられがちなものだ。

またたとえば「Virus」⦅ウイルス⦆という欧米語の単語は〈日本〉語ではたとえば「ウイルス」というようにそのままカタカナを使って音写されがちなものだが〈中国〉語ではたとえば「病毒」⦅ビョウドク⦆というようにきちんと〈漢〉単語として言い換えられがちなものだ。

またそもそも別に〈中国〉語に頼らなくてもそのような〈日本〉語の中での〈和〉単語や〈漢〉単語などによる欧米語の言い換えはいざその気になりさえすれば〈日本〉人としてその運動の主導権を握って1人でぷらっと独自に好きなだけ行なえることだ。

たとえば「Trade Off」⦅トレード・オフ⦆という欧米語の単語は〈日本〉語ではたとえば「トレード・オフ」というようにそのままカタカナを使って音写されがちなものだが〈日本〉語でもいざその気になりさえすればたとえば「1得1失」⦅イットクイッシツ⦆や「得失相殺」⦅トクシツソウサイ⦆などのようにきちんと〈和〉単語や〈漢〉単語などとして言い換えれるものだ。

またたとえば「Teaser Video」⦅ティーザー・ビデオ⦆という欧米語の単語は〈日本〉語ではたとえば「ティーザー・ビデオ」というようにそのままカタカナを使って音写されがちなものだが〈日本〉語でもいざその気になりさえすればたとえば「ちら見せ予告動画」⦅ちらみせヨコクドウガ⦆などのようにきちんと〈和〉単語や〈漢〉単語などとして言い換えれるものだ。

またたとえば「Object-Oriented」⦅オブジェクト・オリエンテッド⦆という欧米語の単語は〈日本〉語ではたとえば「オブジェクト・オリエンテッド」というようにそのままカタカナを使って音写されがちなものだが〈日本〉語でもいざその気になりさえすればたとえば「部品組み立て指向の」⦅ブヒンくみたてシコウの⦆などのようにきちんと〈和〉単語や〈漢〉単語などとして言い換えれるものだ。

またたとえば「Cliff Hanger」⦅クリフ・ハンガー⦆という欧米語の単語は〈日本〉語ではたとえば「クリフ・ハンガー」というようにそのままカタカナを使って音写されがちなものだが〈日本〉語でもいざその気になりさえすればたとえば「崖ぶらりんの良いとこ終わり」⦅がけぶらりんのいいとこおわり⦆などのようにきちんと〈和〉単語や〈漢〉単語などとして言い換えれるものだ。

またたとえば「Platformer」⦅プラットフォーマー⦆という欧米語の単語は〈日本〉語ではたとえば「プラットフォーマー」というようにそのままカタカナを使って音写されがちなものだが〈日本〉語でもいざその気になりさえすればたとえば「胴元企業」⦅ドウもとキギョウ⦆や「商業領主企業」⦅ショウギョウリョウシュキギョウ⦆などのようにきちんと〈和〉単語や〈漢〉単語などとして言い換えれるものだ。

欧米やその他の国々の国名の表記

欧米語は基本的にはカタカナを使って表記されると良いものだがしかしまた欧米やその他の国々の国名に限って言えば場合いによってはたとえば「アメリカ」=「米国」⦅ベイコク⦆、「フランス」=「仏国」⦅フッコク⦆、「ロシア」=「露国」⦅ロコク⦆、「ブラジル」=「伯国」⦅ハッコク⦆、「トルコ」=「土国」⦅ドコク⦆などのように漢字それも特に1文字の漢字を使って表記されることもままままあるものだ。

たとえば欧米の国名の「ドイツ」は1文字の漢字を使って「独国」⦅ドッコク⦆と書かれることがあるものだ。

サンスクリット語の表記

さてサンスクリット語はいったいどう表記されるべきだろうか?〈日本〉語ではサンスクリット語は特に1部の仏教系の単語を表すためによく使われるものだがかつて日本に仏教が伝来して以来基本的には漢字の本使いの音写の用法を使って表記されるのが長年の伝統的な習わしだった。だがしかしサンスクリット語は場合いによってはカタカナなどのかな文字を使って書くのも1つの理論上の選択肢としてはありえるものだ。

サンスクリット語は漢字を使って書かれるべきか?

サンスクリット語を漢字を使って書くことの良い点はたとえばその長年のおよそ1500年近くにも渡って代々と受け継がれてきたある種の独特の複雑な呪文のような見た目にこそあるものだ。また仏教は古代のインドで誕生したものだが日本には古代の中国を経由してその古代の中国の言語である古典〈中国〉語を経由してこそ伝来したものなのでそのようなインドから中国を通って日本までの仏教の伝来にまつわるある種の歴史上の数奇な運命を〈日本〉語の正書法に対して正しく反映させる意味でもサンスクリット語を漢字を使って書くのはなかなかおもむきがあって良いものだ。

また逆にサンスクリット語を漢字を使って書くことの悪い点はたとえばそのようなサンスクリット語の漢字を使った表記のためだけに使われる1部のやや特殊な漢字のせいで〈日本〉語の善良無垢な利用者たちが日夜せっせとえっちらおっちらと苦労して覚えなければならない漢字の数や種類などが若干いたずらに増えてしまうということなどにこそあるものだ。

たとえば「Bodhisattva」⦅ボディ・サットバ、仏を目指す者⦆というサンスクリット語の単語はたとえば漢字の本使いの音写の用法を使って「菩提薩埵」⦅ボダイ・サッタ⦆と書かれることもあればたとえばカタカナを使って「ボディ・サットバ」と書かれることもあるものだ。

アイヌ語の表記

さてアイヌ語はいったいどう表記されるべきだろうか?〈日本〉語ではアイヌ語は特に日本の東北地方や北海道地方などのアイヌ語の地名などを表すためによく使われるものだが日本ではかつての侍たちが大手を振って跋扈していた中世の時分より現代の時分に至るまで漢字の本使いの音写の用法や漢字の訓使いの外国語結合かつ音写の用法などを使って表記されることもそれなりに1般的によくあったことだ。だがしかしアイヌ語は場合いによってはカタカナなどのかな文字を使って書くのも1つの理論上の選択肢としてはありえるものだ。

アイヌ語は漢字を使って書かれるべきか?

アイヌ語を漢字を使って書くことの良い点はたとえばもちろん仏教系のサンスクリット語の単語ほどではないにせよそれなりに多少の歴史を持った伝統的な習わしだということだ。

また逆にアイヌ語を漢字を使って書くことの悪い点はまず第1には1般にアイヌ語の地名とされるものはたとえば仏教系のサンスクリット語の単語と比べるとその出自がそれほどはっきりとはしていないことが多くまた場合いによってはそもそも本当にアイヌ語かどうかすら怪しいこともあるということでありそしてまた第2には1般にアイヌ語の地名とされるものはたとえば仏教系のサンスクリット語の単語と比べると漢字の本使いの音写の用法と漢字の訓使いの外国語結合かつ音写の用法をどちらも共に互いに混ぜこぜにして使って書かれることが多くまたそれゆえに場合いによってはやたらと難読な地名になってしまいがちだということだ。

たとえば「Nupur-Pet」⦅ヌプル・ペツ、温泉の川⦆というアイヌ語の単語はたとえば漢字の本使いの音写の用法や漢字の訓使いの外国語結合かつ音写の用法などを使って「〈登別〉」⦅ノボリ・ベツ⦆と書かれることもあればたとえばカタカナを使って「〈ノボリ・ベツ〉」と書かれることもあるものだ。

その他の外国語

さてその他の外国語はいったいどう表記されるべきだろうか?〈日本〉語ではその他の外国語はそもそも何かそれほど大きな存在感を持って君臨しているものではないが基本的にはカタカナなどのかな文字を使って書かれると良いものだ。

たとえば「Nasi Goreng」⦅ナシ・ゴレン、炒め飯⦆というインドネシア語の単語はたとえばカタカナを使って「ナシ・ゴレン」と書かれるものだ。

中黒点の「・」を使った単語の分かち書き

〈日本〉語ではたとえば〈和〉単語や〈漢〉単語など以外の欧米語やその他の外国語などの場合いにはたとえば中黒点の「・」を使って単語の分かち書きを行なうとそれらの単語どうしの互いの境目がより明確になって何かと親切で紛れのない表記になってくれることがしばしばある。世間1般ではそのような〈日本〉語での中黒点の「・」を使った単語の分かち書きはたとえば人名や地名などの場合いには今でもわりかし1般的に行なわれているように思われるがその他の普通の単語の場合いには今の所はあまり1般的には行なわれていないように思われる。しかしまたそうすると〈日本〉語ではそれらの欧米語やその他の外国語などの単語どうしの互いの境目は何かとわかりずらくなってしまうことがままままあるものなのでそのような〈日本〉語での中黒点の「・」を使った単語の分かち書きは今後はもっと大々的に気勢を上げて推奨されていってしかるべきものだ!と筆者は考える。

たとえば「カフェ・オ・レ」⦅Café Au Lait、牛乳に加えてコーヒー⦆という〈フランス〉語の単語は「カフェ」⦅Café、コーヒー⦆+「オ」⦅Au、に加えて⦆+「レ」⦅Lait、牛乳⦆という形を取るものだが中黒点の「・」を使って単語の単位で分かち書きされているものだ。

外国語に対する重複補足語

〈日本〉語では何らかの特定の外国原産の単語が使われる時にはその情報の受け手となる大多数の〈日本〉人たちにとってはその特定の外国原産の単語の意味は正直ぶっちゃけよくはわからないのが普通だがまたそれゆえに〈日本〉語ではそのような特殊な事情ごときめのものはそもそもの当然の前提として色色な配慮が施されることが絶対的に必要でありまた絶対的に望ましいことだ。

たとえば「〈ウォール・ストリート〉」⦅Wall Street⦆というアメリカのとある地名を表す言葉は〈英〉語を知っているアメリカ人たちからすると「ああなるほど「ストリート」⦅Street⦆=「通り」⦅とおり⦆を表すものなのだな!」ということがすぐにわかるかもしれないが〈英〉語を知らない〈日本〉人たちからすると「はてこれはいったいぜんたい何事をはたして表しているものなのか?」ということが全くもってちんぷんかんぷんなこともきっとあるはずなので場合いによってはたとえば「〈ウォール・ストリート〉通り」⦅ウォール・ストリートどおり⦆というように〈英〉語の単語の「ストリート」⦅Street⦆と〈日本〉語の単語の「通り」⦅とおり⦆を互いにくだくだしく重複させて念には念を入れて補足していわゆる外国語に対する重複補足語を使ってこそ表記されるべきものだ。

そのような外国語に対する重複補足語は世間の1部の界隈では時として「ある種の甚大なる誤用なのではないか?」とされることもあるが筆者としてはむしろ「ある種の極めてすばらしい対応策だ!」と自信を持って言えるものだ。

韓国、朝鮮国、ベトナムなどの名称名詞の表記

またその他の外国語の中でもその他の漢字文化圏の国々である韓国、朝鮮国、ベトナムなどの1般には個有名詞などと呼ばれることもあるようなたとえば人名や地名などの名称名詞についてはたとえばカタカナを使って表記されるべきなのか?それとも漢字を使って表記されるべきなのか?それなりに1考の余地があるものだ。

たとえば韓国の名称名詞は漢字を使って表記されることも多いが〈日本〉人からするとそれらの韓国の名称名詞はたとえば「〈蚕室〉」⦅〈日本〉語読み=サンシツ、韓国語読み=チャムシル⦆などのようにただ単に漢字を使って表記されてしまうとその韓国の現地の韓国語読みの発音がわからなくなってしまって何かと不便になってしまいがちだ。しかしまただからといって〈日本〉人からするとそれらの韓国の名称名詞はたとえば「〈チャムシル〉」などのようにただ単にカタカナを使って表記されてしまうとその韓国の名称名詞の意味や由来などがわからなくなってしまって何かと味気なくなってしまいがちだ。そしてまたそうするとそれらの韓国の名称名詞はたとえば「〈チャムシル〉」⦅蚕室⦆というようにカタカナを使って表記してふり漢字を付けるという方式の表記か?あるいはたとえば「〈蚕室〉」⦅チャムシル⦆というように漢字を使って表記してふりがなを付けるという方式の表記か?それらの2つの方式の表記の内のどちらかがきっと良いはずだ!ということになるのだろうが筆者としては韓国ではもはや漢字がほとんど全くと言って良いほど使われなくなってきているという事実にかんがみれば言わんや他でもなくその内の前者のカタカナを使って表記してふり漢字を付けるという方式の表記こそをもっと1般的に流行らせていけば何かとご都合がよろしいのではないか?と考えている次第だ。

〈日本〉語の正書法の主要な選択肢の互いの比較

さて〈日本〉語の正書法ではそれらの色色な種類の単語の中でも特に〈和〉単語の単語と〈漢〉単語の単語をそれぞれにいったい何の文字を使って表記するべきか?ということが特に重大な問題となるがここでは〈日本〉語の正書法の主要な選択肢としては以下の4つのものを互いに比較して考えていくことにしよう。

〈日本〉語の正書法の主要な選択肢その1:〈和〉単語はかな文字漢字混用かつ〈漢〉単語は漢字専用方式

〈日本〉語の正書法の主要な選択肢その2:〈和〉単語はかな文字専用かつ〈漢〉単語は漢字専用方式

〈日本〉語の正書法の主要な選択肢その3:〈和〉単語も〈漢〉単語もかな文字専用方式

〈日本〉語の正書法の主要な選択肢その4:〈和〉単語も〈漢〉単語もローマ字専用方式

〈日本〉語の正書法の主要な選択肢その1:〈和〉単語はかな文字漢字混用かつ〈漢〉単語は漢字専用方式

〈日本〉語の正書法の第1の主要な選択肢はずばり「〈和〉単語はかな文字漢字混用かつ〈漢〉単語は漢字専用方式」と呼ばれるもののことだ。そこでは〈和〉単語は基本的にはできるだけ漢字の訓使いの表語の用法を使って書かれることになるがしかしまたそれらの〈和〉単語の中でも特に1部の文法上の機能語や漢字の訓使いの表語の用法を使ってはどう頑張っても書きようがないものだけはかな文字を使って書かれることになる。またそこでは〈漢〉単語は全て漢字の本使いの表語の用法を使って書かれることになる。

これに従うとたとえば夏目漱石⦅なつめ・そうせき⦆作の小説の『我が輩は猫である』⦅わがハイはねこである⦆の冒頭の部分は以下のようになる。

(我が輩は猫である。名まえはまだない。どこで産まれたか?とんと見当が着かぬ。何でも薄暗いじめじめした所でにゃ~にゃ~鳴いていたことだけは記憶している。我が輩はここで始めて人間とゆうものを見た。しかも後で聞くとそれは書生とゆう人間中で1番獰悪な種族であったそうだ。この書生とゆうのは時々我々を捕まえて煮て食うとゆう話しである。しかしその当時は何とゆう考えもなかったから別段恐ろしいとも思わなかった。)

〈日本〉語の正書法の主要な選択肢その2:〈和〉単語はかな文字専用かつ〈漢〉単語は漢字専用方式

〈日本〉語の正書法の第2の主要な選択肢はずばり「〈和〉単語はかな文字専用かつ〈漢〉単語は漢字専用方式」と呼ばれるもののことだ。そこでは〈和〉単語は全てかな文字を使って書かれることになりまた〈漢〉単語は全て漢字の本使いの表語の用法を使って書かれることになる。

これに従うとたとえば夏目漱石⦅なつめ・そうせき⦆作の小説の『我が輩は猫である』⦅わがハイはねこである⦆の冒頭の部分は以下のようになる。

(わが輩はねこである。なまえはまだない。どこでうまれたか?とんと見当がつかぬ。なんでもうすぐらいじめじめしたところでにゃ~にゃ~ないていたことだけは記憶している。わが輩はここではじめて人間とゆうものをみた。しかもあとできくとそれは書生とゆう人間中で1番獰悪な種族であったそうだ。この書生とゆうのはときどきわれわれをつかまえてにてくうとゆうはなしである。しかしその当時はなんとゆうかんがえもなかったから別段おそろしいともおもわなかった。)

〈日本〉語の正書法の主要な選択肢その3:〈和〉単語も〈漢〉単語もかな文字専用方式

〈日本〉語の正書法の第3の主要な選択肢はずばり「〈和〉単語も〈漢〉単語もかな文字専用方式」と呼ばれるもののことだ。そこでは〈和〉単語も〈漢〉単語も全てかな文字を使って書かれることになる。しかしまたそれはさらに細かく分けると〈和〉単語も〈漢〉単語も全てひらがなを使って書く方式、〈和〉単語も〈漢〉単語も全てカタカナを使って書く方式、〈和〉単語はひらがなを使って書き〈漢〉単語はカタカナを使って書く方式などへと分けれる。

これに従ってその内の1番目の方式に従って〈和〉単語も〈漢〉単語も全てひらがなを使って書きまた文節の単位で適宜分かち書きするとたとえば夏目漱石⦅なつめ・そうせき⦆作の小説の『我が輩は猫である』⦅わがハイはねこである⦆の冒頭の部分は以下のようになる。

(わがはいは ねこである。なまえは まだ ない。どこで うまれたか? とんと けんとうが つかぬ。なんでも うすぐらい じめじめした ところで にゃ~にゃ~ ないていた ことだけは きおくしている。わがはいは ここで はじめて にんげんと ゆう ものを みた。しかも あとで きくと それは しょせいと ゆう にんげんじゅうで 1ばん どうあくな しゅぞくであった そうだ。この しょせいと ゆう のは ときどき われわれを つかまえて にて くうと ゆう はなしである。しかし その とうじは なんと ゆう かんがえも なかったから べつだん おそろしいとも おもわなかった。)

〈日本〉語の正書法の主要な選択肢その4:〈和〉単語も〈漢〉単語もローマ字専用方式

〈日本〉語の正書法の第4の主要な選択肢はずばり「〈和〉単語も〈漢〉単語もローマ字専用方式」と呼ばれるもののことだ。そこでは〈和〉単語も〈漢〉単語も全てローマ字を使って書かれることになる。

これに従ってまた単語の単位で適宜分かち書きするとたとえば夏目漱石⦅なつめ・そうせき⦆作の小説の『我が輩は猫である』⦅わがハイはねこである⦆の冒頭の部分は以下のようになる。

(Wa ga hai ha neko de aru. Namae ha mada nai. Doko de umareta ka? ton to kentou ga tuka nu. Nan de mo usugurai zimezime sita tokoro de nyaanyaa naite ita koto dake ha kioku site iru. Wa ga hai ha koko de hazimete ningen to yuu mono wo mita. Sikamo ato de kiku to sore ha syosei to yuu ningen zyuu de 1 ban douaku na syuzoku de atta sou da. Kono syosei to yuu no ha tokidoki wareware wo tukamaete nite kuu to yuu hanasi de aru. Sikasi sono touzi ha nan to yuu kangae mo nakatta kara betudan osorosii to mo omowa nakatta.)

『〈日本〉語の単語表記原則表』を作成せよ!

さて〈日本〉語の正書法はもし仮にきちんといっさい何らの誤解の余地もないほど極めて厳密に定めようとするならば〈日本〉語の単語の単位で1つ1つ具体的に指定していくのがおそらくは1番手っ取り早くて確実な方法だろう。またそれゆえに〈日本〉語の正書法について考える上ではまず始めに必要になってくるのはずばりそもそも〈日本〉語の中でよく使われる単語とはいったい何でありまたそれはいったいどれぐらいの数のものがあるのか?ということをこの天の下の世の中に対して堂々と知らしめる〈日本〉語の単語の1覧表であるはずだ。そのような〈日本〉語の単語の1覧表は基本的にはたとえばその単語の原産地に応じてたとえば〈和〉単語、〈漢〉単語、欧米語、サンスクリット語、アイヌ語、その他の外国語などのようにいくつかの種類のものへと分類されなければならないだろうがまたそれに加えてたとえばその単語の重要度や使用頻度などに応じてたとえば1級、2級、3級・・・などのように10個ぐらいの階級のものへと分類されたりするのも何かと便利で良いだろう。そしてまたそのような〈日本〉語の単語の1覧表はもし仮に名前を付けるとすれば特には奇はてらわずにそのままわかりやすくたとえば『〈日本〉語の単語表記原則表』⦅ニホンゴのタンゴヒョウキゲンソクヒョウ⦆などと呼ばれるときっとなかなか良いはずだ。

いわゆる『常用漢字表』は悪である!

また世間1般では時としていわゆる『常用漢字表』⦅ジョウヨウカンジヒョウ⦆などと呼ばれるような中国原産の漢字の1覧表が使われることがあるがしかしまた〈日本〉語の正書法についてのただならぬ1大事の話しであるにも関わらずそのいわゆる『常用漢字表』⦅ジョウヨウカンジヒョウ⦆のようにその1つ1つの項目の見出しとしてはひとえに〈日本〉語の単語ではなくむしろ中国原産の漢字を使ってしまうなどというのは控えめに言っても大きな誤りに他ならないものだ。またそのいわゆる『常用漢字表』⦅ジョウヨウカンジヒョウ⦆のような使えない日本政府の使えない文部科学省の使えない文化庁の使えない役人たちによって選ばれた使えない御用学者たちによって作られた使えない中国原産の漢字の1覧表はそもそも言語学など大して知りもしないような3流以下の無能な大学教授・・・いやそれどころかむしろその辺にいる普通の小学校の先生ですらちょっと時間を掛ければ作れてしまいそうな恥ずかしい品質の代物だがまたそれゆえにそれはもはや日本のみっともない黒歴史としてまたもっと言ってしまえばもはや悪そのものとして人々の忘却のかなたへと1刻も早く葬り去られてしまってしかるべきものだろう。

漢字の訓使いの改善派の誕生

さて本書がその本書の題名の主部にもあるような〈日本〉語の漢字を使った正書法に関して取る立ち場とはつまりはこれまでのその他のもろもろの立ち場とはまた別の新たな立ち場である漢字の訓使いの改善派の立ち場だがそのような漢字の訓使いの改善派の誕生はひとえにある種の大いなる祝福に他ならないものだ。

〈日本〉語の正書法については1部の界隈では漢字の訓使いの廃止派の人たちがずっとそれなりに細々とではあるものの生き残り続けてきているがそのような漢字の訓使いの廃止派の人たちのもろもろの理窟の内の1つとしてはたとえば「〈和〉単語をかな文字を使って表記することは〈和〉単語を尊重することだが〈和〉単語を漢字を使って表記することは〈和〉単語を冒涜することだ!」というようなものがある。だがしかしそれはあまりにも短絡的な考えではないだろうか?

まず第1にはそのような漢字の訓使いをいざ完全に廃止してしまったとするとその時にはたとえば「箸」⦅はし⦆、「橋」⦅はし⦆、「嘴」⦅はし⦆、「端」⦅はし⦆などのようないわゆる同音異義語すなわち同発音異系統語の〈和〉単語は互いに区別するのがあまりにも難しくなってしまって〈日本〉語の単語としてはその内のいくつかのものはいつの間にか知らず知らずの内にある種の死語として淘汰されてしまうことになるかもしれないがしかしまたそれでは〈和〉単語はひとえに大切にされるどころかむしろないがしろにされてしまうだけであり言ってしまえばいかにも本末転倒の事態に他ならないものだ。

そしてまた第2にはもし仮にそのような漢字の訓使いをいざ完全に廃止してしまったとしてもまたそれと同時にその他のもろもろの漢字の本使いの表語の用法を使って書かれる〈漢〉単語そのものまでをもいっしょにならっていざ完全に廃止してしまわなかったとするとその時にはたとえば「この漢字の「心」⦅シン⦆には〈和〉単語の「こころ」と互いに同じような意味があるんですよ!」というようにその漢字の意味そのものはそれでもなお人々に対してきちんと教えていかなければならないことになるがしかしまたその時にはたとえばいわゆる漢字の本使いの廃止派の立ち場すなわち〈漢〉単語そのものの廃止派の立ち場すなわち〈日本〉語の純〈和〉単語化の立ち場にまで行くなら行くでどどんと1気に行ってしまわない限りはそのような漢字の訓使いという全自動漢字学習装置が使えない分だけまた別の余分な手間がやれ2度手間、3度手間、4度手間・・・というように色色と掛かってしまうことになる。

そしてまた第3にはそのような漢字の訓使いをいざ完全に廃止してしまったとするとその時には〈和〉単語と漢字の互いの結び付きは大幅に衰退してしまうことになりまたそれゆえにたとえば「競馬場」⦅ケイバジョウ⦆=「馬が競う場」⦅うまがきそうば⦆などのようないわゆる〈和〉単語に対する漢字の代理語化もまた同じく大幅に衰退してしまうことになるがしかしまたそうするとそこではたとえばこれまではそのような〈和〉単語に対する漢字の代理語化を通じてある種の1回出番が回ってくるごとにちまちまと0.5点ずつ日銭を稼ぎながら社会の底辺でひっそりと慎ましく暮らす間接〈和〉単語のようなものとしてこの弱肉強食かつ適者生存の惨酷な世界の中を何とか辛うじて生き伸び続けてこれていた〈和〉単語までもが無慈悲にも問答無用で絶滅してしまう可能性すらもが大いに出てきてしまうことになる。

そしてまた第4には「言語の表音主義的な正書法はそもそもそんなにも最高すぎるほど最高にすばらしいものなのか?」ということについてはこの辺りでもうそろそろ今1度立ち止まってみてよくよく考えてみなければならないことだろう。たとえば世界の色色な種類の言語を見てみてもそこでは色色な要因によって必ずしも100%完全に表音主義的な正書法ばかりが採用されているわけではないしたとえば〈英〉語を見てみてもそこではたとえば「Rite」⦅ライト、儀式⦆と「Write」⦅ライト、書く⦆と「Right」⦅ライト、右、権利、正しい⦆などのようないわゆる同音異義語すなわち同発音異系統語はそもそもその綴り方が互いに異なっているおかげで互いにかなり区別しやすくなっているというようにある種の表音主義的な正書法に対する所の非表音主義的な正書法のなかんずくの優越性も大いに認めれるものだ。

そしてまた以上のようなもろもろの事実をいざ適切に勘案に入れると筆者としてはもし仮にそのような漢字の訓使いの今現在の事実上の標準の方式の中に色色とおかしな点が何かと少なからずあったとしてもしかしまただからといってそのような漢字の訓使いそのものをその場のやけくその勢いでいざ完全に廃止してしまったりなどするのではなくむしろそのような漢字の訓使いについてはその既存のあまたありえる欠点を1つ1つこつこつと地道に改善していく方法こそをきちんと最後まで諦めずに粘り強く探っていくべきだ!と考えるわけだが本書ではそのような漢字の訓使いについてのその筆者の独自のいくつものすばらしい改善案についてはどんなに少なく見積もっても何百個という次元の単位で実際に1つ1つの事例をきちんと丁寧に確認しながらしっかりと明快に見ていくつもりだ。

漢字の訓使いの理想その1:全ての〈和〉単語を漢字を使って書く

さて何事もひとえに場当たり性ではなくむしろ1貫性こそがとても大切である。なぜなら場当たり性に満ちたものとはすなわち知性や計画性などの欠如を意味する悪いものであり1貫性に満ちたものとはすなわち知性や計画性などの存在を意味する良いものだからだ。そしてまたそのようにして1貫性の大切さについてきちんと認識するならば漢字の訓使いについてもたとえば「〈和〉単語は1部の特殊な例外を除いて全て漢字を使って書かれるべきだ!」というようなある種の1貫性に満ち溢れた理想主義的な考えへと究極的には至ることになる。なぜならそこではたとえば「とある〈和〉単語はかな文字を使ってしか表記されないがまた別のとある〈和〉単語は漢字を使っても表記される」というようなある種の非1貫的かつ場当たり的な状態はひとえに満足の行く状態からは程遠いと考えれるからだ。しかしまたそのようにして口で言うのはたやすいことだが「〈和〉単語は1部の特殊な例外を除いて全て漢字を使って書く」というのは実際にはある種の前途多難な茨の道のりでありなかなか大変なことだ。だがしかしそれはもちろんけっして不可能なことではないはずだ!なぜならこの世の中に存在する色色な種類の漢字の数はたとえばいわゆる漢字制限などのような天下の愚策を取りさえしなければこれまでにせっせとわんさかと作られてきたものだけでもおよそ何万個という次元の単位に及ぶものだしまたもし仮に必要であれば漢字は新たな種類のものをちょちょいのちょいと適当に好きなだけ自由自在に作っちゃえるものでもあるからだ!

漢字の訓使いの理想その2:〈和〉単語と漢字を互いに1対1で対応させる

また漢字の訓使いについては〈和〉単語と漢字を互いに1対1で対応させるすなわち1つの種類の〈和〉単語に対して1つの種類の漢字を割り当てるという考え方もまた重要なことだ。たとえば「悲しみ」⦅かなしみ⦆と「哀しみ」⦅かなしみ⦆などのようにすなわち〈和〉単語の「かなしみ」に対して漢字の「悲」⦅ヒ⦆と漢字の「哀」⦅アイ⦆というように1つの種類の〈和〉単語に対して2つの種類の漢字を割り当てるのはいわゆる漢字の訓使いの濫用に当たるものだがこれはいわゆる最小主義の規律の美を失わせるものであり筆者としてはあまりお薦めできないものだ。また逆にたとえば「承る」⦅うけたまわる=うける+たまわる⦆などのようにすなわち漢字の「承」⦅ショウ⦆に対して〈和〉単語の「うける」と〈和〉単語の「たまわる」というように1つの種類の漢字に対して2つの種類の〈和〉単語を割り当てるのはひとえに〈和〉単語中心主義的な発想ではなくあくまでも漢字中心主義的な発想に基づいたものだがこれは〈日本〉人にとっては極めて屈辱的なことであり筆者としては全くもって看過できないことだ。

漢字の訓使いの理想その3:〈和〉単語に対する漢字の選定の根拠を示す

また漢字の訓使いについてはたとえば「その特定の種類の〈和〉単語はいったいなぜその特定の種類の漢字を使って表記されなければならないのか?」というようなその特定の種類の〈和〉単語に対するその特定の種類の漢字の選定の根拠について人々に対してきちんと説明責任を果たすのもまた重要なことだ。その今の目下の重要な問題はひとえに「〈日本〉語の単語はこれまではいったいどのようにして表記されてきたのか?」ということではなくあくまでも「〈日本〉語の単語はこれからはいったいどのようにして表記されていくべきなのか?」ということでありその問題に対するそのひとまずの結論がいよいよ出たあかつきにはそれを人々に対してある意味では強制的に押し付けようとしているわけだがしかしまたそうである以上はたとえば「その問題に対するそのひとまずの結論はいったいどのような根拠に基づいて導き出されたものなのか?」ということについて人々に対してきちんと説明責任を果たすのはある意味ではごくごく当然のことだろう。そのような漢字の訓使いをいざきちんと理論的に定めるに当たってはそもそも3流以下の無能な学者たちの仕事ではよく見られるようにただ単に過去の文献や資料などのみじめな奴隷になってしまってはいけないはずだがそれはつまりは裏を返せばそのような漢字の訓使いをいざきちんと理論的に定めるに当たってはそもそも何らかの主体的な思想や判断などがまずもって先になければならないということでもある。

単語の品種

また単語の系統と単語の品種は互いにまた別の全く異なる概念だがまたそれゆえに1つの単語の系統には場合いによってはいくつかの複数の単語の品種が含まれることがあるものだ。

たとえばとある単語系の中で何らかの特定の2つの単語どうしの互いの差異がそれらの特定の2つの単語どうしの互いの品種の差異をいざ意味している時にはその記号論上の差異はずばり「重大で決意に満ちた差異」⦅The Difference That Is Significant And Decisive⦆すなわち「有意味な差異」すなわち「弁別的な差異」などと呼ばれるものだ。

また逆にたとえばとある単語系の中で何らかの特定の2つの単語どうしの互いの差異がそれらの特定の2つの単語どうしの互いの品種の差異をいまだ意味していない時にはその記号論上の差異はずばり「軽微で気まぐれな差異」⦅The Difference That Is Trivial And Whimsical⦆すなわち「無意味な差異」すなわち「非弁別的な差異」などと呼ばれるものだ。

また世間1般ではその中でも特に「軽微で気まぐれな差異」すなわち「無意味な差異」すなわち「非弁別的な差異」についてはそれはたとえば「誤差の範囲の差異」⦅The Difference That Is Marginal⦆などと呼ばれることもある。

たとえば〈日本〉語の単語の「癪ず」⦅むしず⦆と〈日本〉語の単語の「癪つく」⦅むかつく⦆と〈日本〉語の単語の「癪つけい」⦅むくつけい⦆はその内の「癪」⦅むし⦆の所の音節の「し」とその内の「癪」⦅むか⦆の所の音節の「か」とその内の「癪」⦅むく⦆の所の音節の「く」が互いに交替したものだが単語の品種としては互いに軽微で気まぐれな差異を持ったものであり互いに同じ品種に属するものだ。

またたとえば〈日本〉語の単語の「悩む」⦅なやむ⦆と〈日本〉語の単語の「悔む」⦅くやむ⦆はその内の「悩」⦅なや⦆の所の音節の「な」とその内の「悔」⦅くや⦆の所の音節の「く」が互いに交替したものだが単語の品種としては互いに重大で決意に満ちた差異を持ったものであり互いに異なる品種に属するものだ。

(因みにそのような記号論上の「重大で決意に満ちた差異」と「軽微で気まぐれな差異」の違いはたとえばとある音素系の中では「2つの音素の間にある差異」と「1つの音素に属する2つの異音の間にある差異」の違いとして観察されるものだ。

たとえば〈日本〉語の音素の/H/は〈日本〉語のその他のもろもろの音素の/P/や/B/や/M/などと比べると互いに重大で決意に満ちた差異を持ったものだがしかしまたその1方でその〈日本〉語の音素の/H/に属するその他のもろもろの異音の[H’]や[H’’]や[H’’’]などと比べると互いに軽微で気まぐれな差異しか持たないものだ。)

(また因みにそのような記号論上の「重大で決意に満ちた差異」と「軽微で気まぐれな差異」の違いはたとえばとある漢字系の中では漢字の合字化、分字化の問題とも互いに関係してくるものだ。

たとえば〈漢〉単語の単語の「溢血」⦅イッケツ⦆の中で使われている漢字の「溢」⦅イツ⦆と〈漢〉単語の単語の「逸話」⦅イツワ⦆の中で使われている漢字の「逸」⦅イツ⦆は互いに軽微で気まぐれな差異しか持たないものだがまたそれゆえにそれらの2つの漢字は互いに1つの漢字として合字化されるべきものだ。

またたとえば〈漢〉単語の単語の「救済」⦅キュウサイ⦆の中で使われている漢字の「済」⦅サイ、すくう、たすける⦆と〈漢〉単語の単語の「決済」⦅ケッサイ⦆の中で使われている漢字の「済」⦅サイ、きよい、さら、ちゃら⦆は互いに重大で決意に満ちた差異を持ったものだがまたそれゆえにその1つの漢字は互いに2つの漢字として分字化されるべきものだ。)

〈和〉単語の単語の品種の同異と漢字の訓使いの同異の互いの1対1の対応

また本書では漢字の訓使いについてはひとえに「〈和〉単語の単語の品種の同異と漢字の訓使いの同異の互いの1対1の対応」こそを基本的にはせっせと頑張って目指していくことになるがそれはつまりは「〈和〉単語の単語の品種が互いに同じであるならばそれに対する所の漢字の訓使いでも互いに同じ漢字を使うが〈和〉単語の単語の品種が互いに異なるならばそれに対する所の漢字の訓使いでも互いに異なる漢字を使う」すなわち「1つの互いに同一の品種に属すると見なされる2つの〈和〉単語の単語はひとえにそう見なされる限りはどちらも共にただ単に1つの互いに同一の種類の漢字を使ってこそ互いに区別せずに表記されるべきものだが2つの互いに異なる品種に属すると見なされる2つの〈和〉単語の単語はひとえにそう見なされる限りはそれぞれに1つの全部で合わせて2つの互いに異なる種類の漢字を使ってこそ互いに区別して表記されるべきものだ」ということだ。

同系統かつ同品種、同系統かつ異品種、異系統かつ異品種

またそのようにして単語の系統と単語の品種を互いにわざわざ区別して考えなければならないのは単語の中にはひとえに「同系統かつ同品種」のものや「異系統かつ異品種」のものなどに加えて「同系統かつ異品種」のものもあるからだと考えれるものだ。またそれゆえにそのようにして単語の系統やら単語の品種やらについて色色と考えていく上ではたとえば「同系統かつ同品種」、「同系統かつ異品種」、「異系統かつ異品種」というように基本的には3つの互いに異なる型についていざ考えていかなければならないことになる。

たとえば〈日本〉語の単語の「輝やかな」⦅かぐやかな⦆と〈日本〉語の単語の「輝やく」⦅かがやく⦆は互いに同系統かつ同品種のものだと考えれるがもし仮にそう考えるならばそれらの2つの単語はどちらも共にただ単に1つの互いに同一の種類の漢字の「輝」⦅キ・エイ⦆を使ってこそ互いに区別せずに表記されるべきものだ。

またたとえば〈日本〉語の単語の「誇る」⦅ほこる⦆と〈日本〉語の単語の「傲る」⦅おごる⦆は互いに同系統かつ異品種のものだと考えれるがもし仮にそう考えるならばそれらの2つの単語はそれぞれに1つの全部で合わせて2つの互いに異なる種類の漢字の「誇」⦅コ⦆や漢字の「傲」⦅ゴウ⦆などを使ってこそ互いに区別して表記されるべきものだ。

またたとえば〈日本〉語の単語の「書く」⦅かく⦆と〈日本〉語の単語の「撓く」⦅かく⦆は互いに異系統かつ異品種のものだと考えれるがもし仮にそう考えるならばそれらの2つの単語はそれぞれに1つの全部で合わせて2つの互いに異なる種類の漢字の「書」⦅ショ⦆や漢字の「撓」⦅ジョウ⦆などを使ってこそ互いに区別して表記されるべきものだ。

⦅そこでは「異系統かつ同品種」という型は基本的にはありえないものであり基本的には考えなくても良いものだがこれはなぜならそれが互いに異系統である場合いにはそれが互いに異品種であることも基本的には自動的に確定するものだからだ。そこではあくまでもそれが互いに同系統である場合いにのみそれがさらに互いに同品種であるのか?それとも互いに異品種であるのか?ということをまだまだ追加で余分に考えていかなければならなくなるものだ。⦆

日本の公教育の教科書の文章は全文ふりがな付きの漢字入りの表記を基本としよう!

さてもし仮にそのような〈日本〉語の正書法の内のそのかけがえのない1部としていざ漢字の訓使いやら漢字の本使いやらがきちんと正式に取り入れられることになったとしたらその時にはその漢字の実際の所の使い方について人々に対してきちんと正確に知らしめていかなければならなくなることだろうがその時には日本のたとえば小、中、高などの学校などでの公教育がきちんと責任を持って果たしていかなければならない役割りもきっとそれなりに大きなものとなることだろう。

さてそのような日本の公教育では基本的には何かしらの知識の伝授用の教科書などが使われることが多いがそのような日本の公教育の教科書の文章は特に古典〈日本〉語、歴史、社会などの科目の場合いにはそうだがいやでもやっぱりそんなけちくさいことは言わずにたとえば現代〈日本〉語、数学、理科、音楽、保健などのどの科目の場合いにもいっさいの例外なく基本的には全文ふりがな付きの漢字入りの表記を使って書かれるべきだ!と筆者は考える。なぜなら〈日本〉語の漢字を使った正書法はその他のもろもろの言語の正書法と比べてみても人生経験の浅い若年層の方々に対して何の補助もなしにいきなり無理やり押し付けるにはかなり複雑奇怪なものでありそもそもふりがなを使わない限りはその表音性が得てして不完全なものになってしまいがちなものだがしかしまたその1方でひとたびふりがなを使いさえすればその表音性はいよいよ晴れて完全なものになってくれるものだしまたそれに加えてそれだけかなり複雑奇怪な分だけその他のもろもろの情報量の多さの面では世界に類を見ないほどすばらしいものになってくれるものだからだ。もちろん〈日本〉語のたとえば教科書などを含む書物の文章をいざ全文ふりがな付きの漢字入りの表記を使って書こうと思えばある程度の余分な手間がどうしても必然的に掛かってしまうのは紛れもない事実だがそのような日本の公教育の教科書の文章の公共性についていざ真摯にかんがみてみればそんなものはおよそ手間とも呼べないほどのちゃんちゃらちんけな手間に過ぎないものだろう。

また世間1般では世の奥様方の口からはたとえば「もうほんとうちの子ったら漫画を読んだりビデオ・ゲームをしたりいっつも遊んでばっかりで学校の勉強なんてものは全然まじめにやらないのよ!」などというような愚痴がよくこぼれてきてしまいがちだが少なくとも漫画もビデオ・ゲームもその個々の作品の中に出てくる〈日本〉語の文章についてはもちろんその個々の作品ごとのその個々の対象年齢にもよるものなので1概には言えないことだが基本的には「全文ふりがな付きの漢字入りの表記」もしくは「全文かな文字書きの表記」をいざご親切にも採用してくれていることが多いしまたそれゆえに人生経験の浅い若年層の方々に対してしっかりと寄り添ってあげていてしっかりと配慮してあげていることが多い。さてそれと比べるとそのような日本の公教育の教科書の文章は現状ではあまりにも不親切なものではないだろうか?

古典〈日本〉語の文章は全文ふりがな付きの漢字入りの表記を基本としよう!

そしてまたそのようにして考えるとその中でも特に古典〈日本〉語の科目に限って考えてみてもそこでは古典〈日本〉語の正書法としてはたとえば「古典〈日本〉語の文章はできるだけ漢字を使って表記するがただしその全文をふりがな付きで表記する」という方式のものこそがもちろんある程度の余分な手間はどうしても必然的に掛かってしまうにしてもその表音性の面でもその情報量の多さの面でも最強の方式のものなのだ!ということがすぐにわかるはずだ。たとえば古典〈日本〉語ではたとえば「おどろく」という単語は「びっくり仰天する」という意味でも「はっと目が覚める」という意味でもその内のどちらの意味でも使われることがあるがその内の前者の「びっくり仰天する」という意味の場合いには全文ふりがな付きの漢字入りの表記を使ってたとえば「驚ろく」⦅おどろく⦆というように表記してあげてその内の後者の「はっと目が覚める」という意味の場合いには全文ふりがな付きの漢字入りの表記を使ってたとえば「覚ろく」⦅おどろく⦆というように表記してあげるとその古典〈日本〉語の文章を読む学生の皆様からしてもきっとその古典〈日本〉語の文章の意味がさほど大した苦労もなくすんなりと理解できてしまうことになるだろう。

〈日本〉語の方言の文章は全文ふりがな付きの漢字入りの表記を基本としよう!

そしてまたそれと全く同じようなことは〈日本〉語の方言の文章についても言える。〈日本〉語の方言の文章はたとえば〈日本〉語の大阪弁の単語の「ええ」と「あかん」などのように全文かな文字書きの表記を使って表記してしまうと時としてその意味がよくはわからなくなってしまうことがあるがたとえば〈日本〉語の大阪弁の単語の「良え」⦅ええ⦆と「良かん」⦅あかん⦆などのように全文ふりがな付きの漢字入りの表記を使って表記しておいてあげればいつでもその意味がよくわかってきっと「うそやん?そんなんほんまにごっつおおきにやん!」となってくれることだろう。

そしてまたそのようにして全文ふりがな付きの漢字入りの表記を使って表記された〈日本〉語の方言文学をよりわんさかと豪華絢爛に発達させていくことは〈日本〉語の色色な種類の方言をきちんと保存したりまたあるいはじゃんじゃんと復興したりしていく上でもとても重要なことだ。なぜなら言語やら言語の方言やらというようなかくもはかなきものは人々の間でせっせと使われてこそ始めて価値を持つものであり人々の間でついぞせっせと使われなくなってしまったあかつきにはその時にはこの世の中からすぐに瞬く間にものの見事にまあ多少の跡型は残すにしても大いに絶滅してしまうものだからだ。

〈英〉語の正書法にははたして改善の余地はあるのか?

さて話しは若干脇道へとそれるがもし仮に〈日本〉語の正書法にはまだまだ改善の余地がたっぷりと残っているとしてではたとえばその他のもろもろの言語の正書法・・・その中でも特に〈英〉語の正書法についてははたしてどうだろうか?

〈英〉語は色色な要因によって音声言語と文字言語の互いの乖離が極めて大きく進んでいる言語だがまたそれゆえに〈英〉語の正書法をきちんと正確無比に完全に習得することはそもそも世間1般ではややもするとうっかりと見過ごされてしまいがちだが〈日本〉語の漢字を使った正書法をきちんと正確無比に完全に習得することにもいっさい負けず劣らず実際には極めて猛烈に難しいことだ。しかしまた逆にそれは裏を返せばそのような〈英〉語の正書法にもまだまだ改善の余地はたっぷりと残っているということでもある。

そのような〈英〉語の正書法を何かしらどうにかしらして色色と改善していくに当たってはたとえば「まあ〈英〉語の正書法なんてものはいちいちああだのこうだのとつべこべ言わずに100%完全に表音主義的な正書法へといざ思い切って変えてしまえば良いのだよ!」というようなある種の極めて単純明快で極めて原理主義的な方法もいちおうは考えれるがしかしまた〈英〉語はたとえば母音の数がそれなりに多い言語なのでもし仮に実際にそうするとなるとその時にはその〈英〉語の全ての母音をきちんと互いに区別して表記するためには何らかの新たな文字や記号などが大いに必要になってきてしまうことになるだろう。またそのような〈英〉語の100%完全に表音主義的な正書法にはたとえば同音異義語すなわち同発音異系統語の互いの区別が付きにくくなったりするなどのようにそもそも色色な欠点もありえるものだがまたそれゆえにそのような〈英〉語の正書法にまつわるある種の人為的な改革案の採用の是非については「そもそも本当に必要なものなのかどうか?」あるいはもし仮に1部ではそれなりに必要なものだったとしても「いったいどれだけ切実に必要なものなのか?」きちんとよくよく熟慮してからくれぐれも慎重に決められるべきことだろう。

たとえば〈英〉語の無声音の子音の音素の/Θ、θ/⦅ス⦆や有声音の子音の音素の/Ð、ð/⦅ズ⦆などは現代〈英〉語ではたとえば「Theme」⦅シーム、主題⦆や「Fathom」⦅ファゾム、真意を把握する⦆などのようにどちらも共にローマ字の〖TH、th〗を使って表記されるのが普通だが古典〈英〉語や古典ゲルマン語などではたとえば「Þeme」⦅シーム、主題⦆や「Faðom」⦅ファゾム、真意を把握する⦆などのようにそれぞれにルーン文字の〖Þ、þ〗⦅ソーン⦆とまた別の文字の〖Ð、ð〗⦅ザット⦆を互いに区別して使って表記されることもままままあったしまたその他にも場合いによってはたとえば「Theme」⦅シーム、主題⦆や「Fadhom」⦅ファゾム、真意を把握する⦆などのようにそれぞれにローマ字の〖TH、th〗とローマ字の〖DH、dh〗を互いに区別して使って表記されることも充分に考えれるものだ。

(因みに野球ではその試合の規則によっては「DH」⦅ディー・エイチ、Designated Hitter、デジグネーティド・ヒッター⦆すなわち「指名打者」⦅シメイダシャ⦆と呼ばれるような守備にはいっさい付かずに打撃だけを専門的に行なう役割りの選手がいることがあるが昨今ではたとえば「そもそもまるで打つ気のない投手が打席で毎回自動アウトになるぐらいならもっと1般的にどこのリーグや大会などでもDH制度を1律的に採用すべきじゃないか?」と主張するようなある種のDH制度賛美派の意見もちらほらと目立つようになってきた。さてそれと全く同じようにして〈英〉語でもそのような〖TH、th〗表記ならぬ〖DH、dh〗表記をいざ思い切って新たに採用するべきかどうか?ということは以上のようにもっと大いに真剣に検討されてしかるべきことなのだ!)

横書きか?縦書きか?

〈日本〉語の正書法・・・いやそれどころかむしろその他のもろもろの言語なども含めて何らかの特定の言語の正書法について考える上ではその文章の1次元的な進行の方式を横書きにするべきか?それとも縦書きにするべきか?ということがまず1つの大きな問題として浮上してくることになる。たとえば東アジア周辺の言語である〈日本〉語、〈中国〉語、韓国語、朝鮮国語、ベトナム語などはかつては縦書きで書かれることも多かったが今ではたとえば〈英〉語や〈フランス〉語などを始めとした欧米語の影響を大いに受けたせいか横書きで書かれることもかなり1般的になってきている。だがしかしその中でも特に〈日本〉語の文章についてのみ言えばたとえば新聞、雑誌、書籍、小説、漫画などの人文系の文章を中心としていまだに縦書きの文章がやたらと根強く好まれるきらいがあるのもまた事実だがしかしまたたとえば外国語の学習、数学や理科などでの数式の記述、コンピューター上での情報の処理や表示などの文明開化の行進の面では欧米のある意味では先進的な国々とも互いに足並みを揃えておいていっそのこと横書きの文章を前もって姑息にも採用しておくのも何かと利益が大きいことだ。またそれゆえに筆者としてはたとえば漫画のコマ割りなどももし仮にいざ思い切って横書きと縦書きを互いに変更してしまったとしてもしばらくしてある程度の時間が経ってその新たなる標準の形式に1旦慣れてきさえすれば別にどうってことはないだろう!と思うので〈日本〉語のありとあらゆる全ての文章はもはやできるだけ横書きにして書かれてしまうべきだ!と考える。

左から右か?右から左か?

また〈日本〉語の文章やその他のもろもろの言語の文章は横書きの場合いであれ縦書きの場合いであれたとえば左から右へと順番に進んでいくのか?それとも右から左へと順番に進んでいくのか?ということによってまた別の2つの大きな種類のものへと分けれることになる。たとえば〈日本〉語の文章は横書きの場合いにはたとえば〈英〉語や〈フランス〉語などを始めとした欧米語の文章とも互いに同じで左から右へと順番に進んでいく形で書かれるのが普通だが縦書きの場合いにはたとえばアラビア語やヘブライ語などのセム語系の言語の文章とも互いに同じで右から左へと順番に進んでいく形で書かれるのが普通だ。

(世界の色色な種類の言語の文章はほとんど全ての場合いで上から下へと順番に進んでいく形で書かれるのが普通だがまたそれゆえに世界の色色な種類の言語の文章ではたとえば下から上へと順番に進んでいく形で書かれるものは基本的には考えなくても良い。)

終止符丸の「。」と休止符点の「、」

また〈日本〉語の文章ではたとえば文を区切るものとしては終止符丸の「。」やピリオドの「.」などが使われることがありたとえば句節を区切るものとしては休止符点の「、」やコンマの「,」などが使われることがある。そしてまた1部の界隈では「〈日本〉語の文章では横書きの場合いには欧米かぶれなのか何なのか?その内のピリオドの「.」やコンマの「,」などが使われるべきだが縦書きの場合いには日本かぶれなのか何なのか?その内の終止符丸の「。」や休止符点の「、」などが使われるべきだ!」と主張するような意見もあるが筆者としては「〈日本〉語の文章では横書きの場合いであれ縦書きの場合いであれ皆1律にその内の終止符丸の「。」や休止符点の「、」などが使われれば別にそれで良いだろう」と考えているしいやそれどころかむしろ「そっちのほうがよっぽど自然なことだろう」とすら考えている。

色色な種類の括弧の使い方

また〈日本〉語の文章ではたとえば文字列、会話文、引用文、挿入文、注釈文、作品の題名などを表示するものとして色色な種類の括弧が使われることがある。

たとえば括弧の「」はたとえば文字列、会話文、引用文などを表すためによく使われるものだ。

またたとえば括弧の()はたとえば挿入文、注釈文などを表すためによく使われるものだ。

またたとえば括弧の『』はたとえば作品の題名などを表すためによく使われるものだ。

名称名詞の明示的な表記

また〈日本〉語の文章ではこれからのさる〈日本〉語の大情報化社会の到来に向けて1般には個有名詞などと呼ばれることもあるようなたとえば人名や地名などの名称名詞の明示的な表記についてもここで今1度じっくりと考えておくのが良いだろう。

たとえば〈日本〉人は基本的には〈日本〉語の名称名詞と〈日本〉語の普通名詞すなわち〈日本〉語のただの普通の名詞のことを互いにすぐに見分けれることが多いがこれは〈日本〉人がその自分の幼い頃から〈日本〉語の何百個、何千個あるいはひょっとしたら何万個という数え切れないほどの数の名称名詞を自然と大量に目にしてきてまたその結果としてその〈日本〉語の名称名詞の深層にあるある種の共通の型のようなものを自然と知らず知らずの内にきちんと首尾良く学習して身に付けてしまっているからこそちょちょいのちょいと軽くやってのけれるあっぱれお見事な芸当に他ならないものだ。たとえば外国人からすると〈日本〉語の名称名詞と〈日本〉語の普通名詞を互いに正しく区別することは基本的にはかなり難しいことだ。たとえば筆者はもちろん〈日本〉語の名称名詞と〈日本〉語の普通名詞は互いにおおよそ正しく区別できることだろうがたとえばこれが古典〈中国〉語の名称名詞と古典〈中国〉語の普通名詞の互いの正しい区別の話しになってくるとひとえに外国人であるがゆえに正直に言ってなかなか苦労してしまうこともあるのが実際の所だ。

たとえば古代のエジプトでは王様の名前を「ヒエログリフ文字」⦅神聖刻印文字⦆を使って表記する時にはその時だけは特別に必ずや「ははあ~」とかしこくかしこまって時として「薬莢囲い」⦅ヤッキョウがこい、Cartouche、カルトゥーシュ⦆などと呼ばれることもあるようなある種の銃弾の薬莢のような筒状の線で囲んで表記するのがその常なる習わしだった。もちろんこれはひとえにその古代のエジプトの言語のある種の正書法的な発想に基づいて遵守された礼儀作法だったというよりかはむしろその古代のエジプトのある種の宗教的、呪術的な発想に基づいて遵守された礼儀作法だったと考えれるがまあでもいざ思い切ってその古代のエジプトの言語のある種の正書法を構成している色色な種類の規則の内の1つとして考えてみてもその古代のエジプトの遺跡の文章に出てくる単語はいちいちこの薬莢囲いがあるたびに「ああなるほどこれは王様の名前を表しているものなのだな!」ということがすぐさまわかってしまうものなのでそういう意味では何かと便利でとってもありがたいことだ。

【古代のエジプトの王様の〈セティ1世〉の名前の薬莢囲い】

またたとえば〈英〉語や〈フランス〉語などを始めとした欧米語では名称名詞はたとえば「Mr. Smith」⦅ミスター・スミスさん⦆や「M. Henry」⦅ムシュー・アンリさん⦆などのようにその単語の先頭の所を大文字化することでぱっとひと目見ただけでもそれが名称名詞だと明示的にわかるようにしてくれていることも多いものだ。

またたとえば現代〈中国〉語の〈香港〉弁では名称名詞はたとえば「愛莎」⦅ンゴイ・サ、Elsa、エルサ⦆や「魔雪奇緣」⦅モォ・シュゥトゥ・ケイ・ユゥン、Frozen、アナと雪の女王⦆などのようにその単語の下側の所にたとえば人名や地名などを表すものとして時として「専名号」⦅センメイゴウ⦆などと呼ばれることもあるような直線の「  」が引かれていたりまたたとえば作品の題名などを表すものとして時として「書名号」⦅ショメイゴウ⦆などと呼ばれることもあるような波線の「  」が引かれていたりすることでぱっとひと目見ただけでもそれが他でもない名称名詞だと明示的に表記してくれていることもけっして必ずやと言えるほど1般的なものではないもののだがしかしそれでも時と場合いによってはしばしばあるものだ。

またそもそもの前提の知識として言語の正書法はどんどんと時代を下るごとに色色と工夫されてはじわじわとまあ確かに少しずつではあるもののわかりやすく改良されてきたという人類の歴史上のある種の大きな流れもある。

たとえば〈日本〉語でも終止符丸の「。」や休止符点の「、」や会話文を表す括弧の「」などは大昔にはいっさい使われていなかったものだ。

そしてまた以上のようなもろもろの点を色色と加味して考えてみると〈日本〉語の正書法でもたとえば「〈山下〉さん」⦅やましたさん⦆や「〈島根〉県」⦅しまねけん⦆などのようにたとえば名称名詞に対しては括弧の〈〉を必ず使うようにするなどして名称名詞の明示的な表記をいざ思い切って取り入れてみるのももちろん手書きの文章の場合いには若干の手間は増えてはしまうだろうもののコンピューター上での処理の場合いにはいくばくかの利点もあるいは少なからずあることだろうしきっとなかなかの名案であるはずだ。

(因みに中国では作品の題名を表すのには括弧の〈〉を使うのでそれにあえて媚びるならば日本でも作品の題名を表すのには括弧の〈〉を使ってそしてまた逆に日本では名称名詞を表すのには今は作品の題名を表すのに使われている括弧の『』を使うという選択肢もいちおうあるにはある。)

〈日本〉語の長音の表記

さて〈日本〉語の正書法にまつわる色色な問題の内の1つとしてはたとえば長音はいったいどう表記されるべきか?というようなまた別のちょっとしたややこしい問題もある。

たとえば/エイ/や/オウ/などの音素がたとえば/エー/や/オー/などのように長音化した場合いにはそれをたとえば〖エイ〗や〖オウ〗などのように2重母音的に表記するのはずばり長音の2重母音式の表記と呼ばれるものだ。

またたとえば/エイ/や/オウ/などの音素がたとえば/エー/や/オー/などのように長音化した場合いにはそれをたとえば〖エー〗や〖オー〗などのように長音記号的に表記するのはずばり長音の長音記号式の表記と呼ばれるものだ。

たとえば〈日本〉語の「〈和〉単語はかな文字漢字混用かつ〈漢〉単語は漢字専用方式」の正書法では〈和〉単語と〈漢〉単語はたとえば「詣でる」⦅○もうでる、×も~でる⦆や「後悔」⦅○コウカイ、×コーカイ⦆などのように長音の2重母音式の表記を使って表記されることが多く欧米語はたとえば「Stove」⦅×ストウヴ、○ストーヴ⦆などのように長音の長音記号式の表記を使って表記されることが多くすなわちその全体としては長音の両者折衷式の表記を使って表記されることが多い。

またたとえば〈日本〉語の「〈和〉単語も〈漢〉単語もローマ字専用方式」の正書法では〈和〉単語も〈漢〉単語も欧米語もたとえば「詣でる」⦅×Mouderu、○Mōderu⦆や「後悔」⦅×Koukai、○Kōkai⦆や「Stove」⦅×Stouvu、○Stōvu⦆などのように長音の長音記号式の表記を使って表記されることが多い。

筆者としては〈日本〉語の「〈和〉単語はかな文字漢字混用かつ〈漢〉単語は漢字専用方式」の正書法でも〈日本〉語の「〈和〉単語も〈漢〉単語もローマ字専用方式」の正書法でもたとえば「東京タワーに行こう!」⦅トウキョウ・タワーにいこう!、Toukyou Tawā Ni Ikou!⦆などのようにその長音の両者折衷式の表記を使うのが良いのではないか?と考えている。なぜならもし仮にその長音の両者折衷式の表記を使ったとするとその時にはたとえば「〈和〉単語と〈漢〉単語の場合いには長音記号は使われないが欧米語の場合いには長音記号が使われる」というようなある種のとてもわかりやすい状況が産み出されることになり「〈和〉単語、〈漢〉単語」VS「欧米語」の互いの区別がとても付きやすくなってくれるからだ。

〈日本〉語のヘボン式のローマ字を使った表記はいったい何がいけないのか?

さて〈日本〉語のローマ字を使った表記としてはひとえに色色な種類のものが考えれるがその内の1つとしては1般にはずばり〈日本〉語のヘボン式のローマ字を使った表記と呼ばれるものがある。そのような〈日本〉語のヘボン式のローマ字を使った表記はアメリカ人の医師のヘボン先生⦅Dr. Hepburn⦆によって主に発明されて教育されたものだがそのような〈日本〉語のヘボン式のローマ字を使った表記ではたとえば「サ、シ、ス、セ、ソ」すなわち/SA、SI、SU、SE、SO/はひとえに〖SA、SI、SU、SE、SO〗ではなくむしろ〖SA、SHI、SU、SE、SO〗のように表記されることになりまたたとえば「タ、チ、ツ、テ、ト」すなわち/TA、TI、TU、TE、TO/はひとえに〖TA、TI、TU、TE、TO〗ではなくむしろ〖TA、CHI、TSU、TE、TO〗のように表記されることになる。だがしかしそのような〈日本〉語のヘボン式のローマ字を使った表記は何から何まで色色とちゃんちゃらおかしいものであり何が何でも絶対に断固として認めるわけにはいかないものだ。なぜならたとえばその言語音の[S]とその言語音の[SH]の互いの違いはアメリカ人にとっては2つの互いに異なる音素として顕在的に意識されるものだったとしても〈日本〉人にとっては2つの互いに異なる音素としては顕在的には意識されない誤差のようなものでありたとえば声色などとも互いに同じで言語をある種の記号的な実体として運用していく上では全くもって無意味な差に過ぎないものだからだ。

そのような〈日本〉語のヘボン式のローマ字を使った表記はひとえにアメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のための〈日本〉語のローマ字を使った表記であり〈日本〉人にとってはもはや大いなる国辱以外の何ものでもないものだ。たとえば〈日本〉語の「餅」⦅もち⦆という言葉はそのような〈日本〉語のヘボン式のローマ字を使った表記に従うと〖Mochi〗と表記されることになるがたとえば〈フランス〉語では「CHI」は通常は「シ」と発音されるものなのでフランス人にとっては〖Mochi〗はひとえに「モチ」ではなくむしろ「モシ」になってしまうことになるがそれはお餅さんたちにとってもあまりにも理不尽極まりないことだ!

〈日本〉人の中にはたとえば「今の日本の憲法は先の大東亜戦争、太平洋戦争の敗戦の混乱のどさくさに紛れて何らの言論の自由もない中で主にアメリカ人によって制定されたいんちきいかさま憲法であり〈日本〉人にとってはまさしく大いなる国辱以外の何ものでもないものなのだからさっさと1刻も早く改正されなければならない!」と考える人たちがいるが筆者のようなろくでもない人間からするとたとえば「ってか国家の最高法規だか何だかはよく知らねえがそんな憲法みてえなもんはもうどうでも良いからそれよかこのヘボン式のくそ野郎こそをさっさと1刻も早く改正しやがれ!」という考えにもなるのだ。

表語文字はけっして珍しい文字ではない

また表語文字や言語の表語主義的な正書法は〈中国〉語の漢字を使った正書法の中でこそ極めて顕著に見られるものだがしかしまただからといって何も〈中国〉語の漢字を使った正書法の中でのみ唯一無二的に見られる超絶メガトン級に珍しい文字や言語の正書法だというわけではない。たとえば古代のエジプトで使われていたヒエログリフ文字⦅神聖刻印文字⦆には表語主義的な側面と表音主義的な側面がどちらも共にあったしまたたとえば〈英〉語や〈フランス〉語などの正書法にも表語主義的な側面と表音主義的な側面がどちらも共にある。

〈英〉語も〈フランス〉語も1部で表語主義的な正書法を採用している

世間1般では「たとえば〈英〉語や〈フランス〉語などの欧米語はある種の純粋な表音文字であるローマ字を使ってこそ書かれる」とやや不正確にもよく考えられがちだが実を言うとたとえば〈英〉語や〈フランス〉語などの欧米語が100%完全に表音主義的な正書法を採用しているか?と言われるとそれは全く事実ではない。

たとえば〈英〉語の「night」⦅ナイト、夜⦆という言葉と「knight」⦅ナイト、騎士⦆という言葉は現代では互いに全く同じ「ナイト」という発音を持った言葉だがいくぶんか昔には互いにいくぶんか異なる発音を持った言葉だった。そのいくぶんか昔のその当時の〈英〉語ではその「night」⦅ナイト、夜⦆という言葉はおおよそ「ニヒト」のように発音されていたしその「knight」⦅ナイト、騎士⦆という言葉はおおよそ「クニヒト」のように発音されていた。これはたとえば〈英〉語とは互いに親戚どうしの関係にあるドイツ語の「nacht」⦅ナフト、夜⦆という言葉の発音や「knecht」⦅クネヒト、特に男の召し使い⦆という言葉の発音などについてさらっとほんの少しだけ調べてみちゃいさえすればすぐにわかっちゃうことだ。しかしまたさらに時代が下って〈英〉語の発音が色色と変化するとそれらの〈英〉語の「night」⦅ナイト、夜⦆という言葉と「knight」⦅ナイト、騎士⦆という言葉はその〈英〉語の「knight」⦅ナイト、騎士⦆という言葉のその先頭の子音の「k」の音がついには完全に発音されなくなったこともあり現代では互いに全く同じ「ナイト」という発音を持つようになった。しかしまただからといってそれらの〈英〉語の「night」⦅ナイト、夜⦆という言葉と「knight」⦅ナイト、騎士⦆という言葉は現代では互いに全く同じたとえば〖nite〗や〖night〗などの表記法に統一されて書かれているか?と言われるとそれは全く事実ではない。

またたとえば〈フランス〉語の「ajouter」⦅アジュテ、足す⦆という言葉はたとえば1人称の単数の現在形では「ajoute」⦅アジュトゥ、私は足す⦆というようにその末尾の子音の〖s〗の字なしで書かれたとえば2人称の単数の現在形では「ajoutes」⦅アジュトゥ、あなたは足す⦆というようにその末尾の子音の〖s〗の字ありで書かれるがその〈フランス〉語の「ajouter」⦅アジュテ、足す⦆という言葉のその2人称の単数の現在形の「ajoutes」⦅アジュトゥ、あなたは足す⦆という形のその末尾の子音の〖s〗の字はその後ろに母音が続かない限りは発音されないものなのでそれらの〈フランス〉語の「ajoute」⦅アジュトゥ、私は足す⦆という言葉と「ajoutes」⦅アジュトゥ、あなたは足す⦆という言葉はたとえば文末などでは互いに全く同じ「アジュトゥ」という発音を持つことになる。しかしまただからといってそれらの〈フランス〉語の「ajoute」⦅アジュトゥ、私は足す⦆という言葉と「ajoutes」⦅アジュトゥ、あなたは足す⦆という言葉はたとえば文末などでは互いに全く同じたとえば〖ajoute〗などの表記法に統一されて書かれているか?と言われるとそれは全く事実ではない。

〈英〉語の正書法も〈フランス〉語の正書法も言うならば言葉のやたらと複雑な表記法をあえて残すことでそれらの言葉どうしの互いの区別をある意味では付けやすくしようとしているわけだがそのようにして言葉を1つの重要な単位だと捉えて表音文字の利点である発音と文字の互いの1対1の対応を犠牲にしてまで言語を1つ1つの言葉の単位に基づいてこそ表記しようとするようなそんな考え方はまさしく言語の表語主義的な正書法の考え方に他ならないものだしまたそれゆえにここで最後にもう1度事実関係をきれいにまとめておくとすれば〈英〉語も〈フランス〉語も何も100%完全に表音主義的な正書法を採用しているわけではなくむしろ1部でいくらかは表語主義的な正書法の利点も取り入れた1部表語主義折衷的な表音主義的な正書法こそを採用していると言えることになるわけなのだ!

漢字系の訓使いの表発音の使われ方は悪である!

現代〈日本〉語でも古典〈日本〉語でも〈日本〉語を使って書かれた文献や資料などで見られる〈日本〉語の言葉についてはこの異言語結合かつ音写文字の漢字のあちこちでの突然の予想外の乱入があるせいでその〈日本〉語の言葉の文面がその〈日本〉語の言葉の本当の成り立ちや語源などを必ずしも常に正確に表しているとは限らないことになりまたそれゆえにそれをせっせと地道に解読する人たちはその〈日本〉語の言葉の本当の成り立ちや語源などを常に慎重に検討するように努めざるをえないことになるがこれは正直なかなか面倒で大変な作業だ。この異言語結合かつ音写文字の漢字は言ってしまえば〈日本〉語の正書法の品位を大いに卑しめるある種の不倶戴天の邪悪な害虫のような存在でありこの世の中から1匹残らず完全に駆逐してやらなければならないような人外の悪魔のような存在だ。

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この記事を書いた人
〈日本〉産まれ〈日本〉育ちで〈日本〉語がいわゆる母言語かつ母国語です。〈英〉語はまあまあ得意です。その他にも〈ドイツ〉語、〈フランス〉語、〈ポルトガル〉語、〈中国〉語、〈韓国〉語辺りはある程度までは読めますが言語って実際の会話では人名や地名や難解な言葉や世俗的な言い回しなども含めてすさまじい速さでかなりめちゃくちゃに進行していくものなのでそれを1言も漏らさずに完璧に聞き取ったりするのはなかなか難しいですね。元元は思想や哲学や宗教などが好きで色色と勉強していたりしたのですがそうこうしている内に言語学についてもかなり専門的な知識が身に付くようになりました。最近は特に〈日本〉語の〈沖縄〉弁の方言と〈中国〉語の〈香港〉弁の方言をぼちぼちと折りに触れて勉強しています。あっ因みに〈日本〉の中でも〈大阪〉の民度の低い地域の出身なので〈日本〉語の〈大阪〉弁の方言もその気になればネイティヴでしゃべれます!