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「有り触れる」⦅ありふれる⦆っていったいどこに「触れる」⦅ふれる⦆の?

  • 記事作成日:2026年7月22日
  • 記事最終更新日:2026年7月25日

さてところでかの〈日本〉語にはたとえば「有り触れる」⦅ありふれる⦆という言葉がありますがその〈日本〉語の「有り触れる」⦅ありふれる⦆という言葉はいったいどういう意味の言葉でしょうか?

その〈日本〉語の「有り触れる」⦅ありふれる⦆という言葉はたとえば「有りすぎてすぐに触れれるぐらいだ」⦅ありすぎてすぐにふれれるぐらいだ⦆だとかいうような意味の言葉でしょうか?

まあ確かにその〈日本〉語の「有り触れる」⦅ありふれる⦆という言葉はそのようにして解釈されても必ずしもそこまで完全に意味不明なものではありませんがかといって筆者としてはそれではそこまで完全に意味がすっきりと通るものだとも思えません。

さてそこで考えたいのはかの〈日本〉語では2つの母音の音素が互いに続いた時にはそれらの2つの母音の音素は時として互いに融合したりして変化することがあるということについてです。

そのような現象はかの〈日本〉語族に属する色色な種類の言語、方言たちの間では時代、地方を問わずそこそこ頻繁に見られるものです。

かの古典〈日本〉語ではたとえば「我が妹子」⦅わがいもこ⦆はたとえば「我ぎ妹子」⦅わぎもこ⦆へと変化することがあります。

またかの現代〈日本〉語ではたとえば「○○しない」はたとえば「○○しねえ」へと変化することがあります。

またかの現代〈日本〉語の〈愛知〉弁の方言ではたとえば「えびフライ」⦅えび Fry⦆はたとえば「えびフリャア」⦅えび Fry⦆へと変化することがあります。

そしてまたその点についても頭に入れた上で再度その〈日本〉語の「有り触れる」⦅ありふれる⦆という言葉について考えてみるとそこではその「有り触れる」⦅ありふれる⦆は実際にはまた別の「有り溢れる」⦅ありあふれる⦆がその「あ」が脱落することでその「有り溢れる」⦅ありふれる⦆へと変化したものなのではないか?などとも考えれるものです。

そしてまたそうするとそこではその「有り溢れる」⦅ありふれる⦆はたとえば「有りすぎてたくさん溢れているぐらいだ」⦅ありすぎてたくさんあふれているぐらいだ⦆だとかいうような意味の言葉にもなってその意味もまるでありえないぐらいに脳汁がどばどばと溢れ出てくるぐらいにすっきりと通るものだということにもなるものです。

いかにもなるほどかの「有り溢れた商品」⦅ありふれたショウヒン⦆とはすなわち要するに「この世の中にたくさん溢れているような特に珍しくもない商品」⦅このよのなかにたくさんあふれているようなトクにめずらしくもないショウヒン⦆のことでありかの「有り溢れた作戦」⦅ありふれたサクセン⦆とはすなわち要するに「この世の中にたくさん溢れているような特に珍しくもない作戦」⦅このよのなかにたくさんあふれているようなトクにめずらしくもないサクセン⦆のことでありかの「有り溢れた食堂」⦅ありふれたショクドウ⦆とはすなわち要するに「この世の中にたくさん溢れているような特に珍しくもない食堂」⦅このよのなかにたくさんあふれているようなトクにめずらしくもないショクドウ⦆のことなのでした。

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この記事を書いた人
〈日本〉産まれ〈日本〉育ちで〈日本〉語がいわゆる母言語かつ母国語です。〈英〉語はまあまあ得意です。その他にも〈ドイツ〉語、〈フランス〉語、〈ポルトガル〉語、〈中国〉語、〈韓国〉語辺りはある程度までは読めますが言語って実際の会話では人名や地名や難解な言葉や世俗的な言い回しなども含めてすさまじい速さでかなりめちゃくちゃに進行していくものなのでそれを1言も漏らさずに完璧に聞き取ったりするのはなかなか難しいですね。元元は思想や哲学や宗教などが好きで色色と勉強していたりしたのですがそうこうしている内に言語学についてもかなり専門的な知識が身に付くようになりました。最近は特に〈日本〉語の〈沖縄〉弁の方言と〈中国〉語の〈香港〉弁の方言をぼちぼちと折りに触れて勉強しています。あっ因みに〈日本〉の中でも〈大阪〉の民度の低い地域の出身なので〈日本〉語の〈大阪〉弁の方言もその気になればネイティヴでしゃべれます!